東京生まれ東京育ちの僕が「中本」を東京の味がアレな代表として提示することのおかしさを語ろう

ええと、本の虫の人はもともとの芸風(とは言え、あのテキストを読んだ人の大半ははじめての訪問者なんじゃないかって思うと慙愧に堪えない)ってのもあって生暖かく見守る気になるんですけどね、これはちょっと…

しかも、蒙古タンメンは都内に十数店舗も店があって、いくつかの店では行列が絶えないような状態なんですよ。
カップラーメンまで販売されているくらいです。
一体どんだけ異端者がいるんですか。

東京の飯の話 | Mokosoft開発者ブログ

ヒント:東京にいる人の大半は異端者である

冗談はさておき、そもそもチェーン店としての中本を個人的にどう思うかというと「とりたてて行く必要もない店」だし、北極原理主義者の一部には一旦閉店する前の店にしか価値を置かない人もいるだろう。僕はかつてその店で特徴的で旨いというかなんというか何かを体験したという印象の食事をしたし、また行ってみようかと思いついに果たせなかったのだけれども、じゃあチェーン店になった中本に足繁く通う気になるかというとならない。多くの人が求めているのは事実かもしれないけど、それは東京の人口のことを思えば取り立てて多いとは思わない。

僕はこのような感想をかつて「陳麻家」でも抱いたことがある。五反田にあった特徴的なお店は無難な味のチェーン店になった。もっと言うと二郎だってそういう系譜なんだけど、少なくとも今二郎の名前で営業しているお店は店の個性が強すぎて乱立していることに全く意味が無いとはいえないし、画一的チェーン店の役割はラーメン大が果たしている。

要は東京のおしゃれでない部分の喰い物シーンなんてのは単に人口が多いからそれなりの店舗数が成り立っているだけであって、別に東京人の大部分がそれを好んでいるという事実があるわけじゃないんだ。周りの人に中本に行ったことがある人(あるいは定期的に通っている人)?と問えば思いの外少ないことがわかるだろう(二郎ですらあれが喰い物であることを認めない人間のほうが多数派であろう。残念ながら)。
もう40年近く東京に住んでいる僕ですら東京で有名なチェーン店の全てに行ったことがないどころか行っていない店のほうが多いんじゃないかと思う。だからこの話は「東京には人が多すぎて店が多すぎる」ということが困難につながっているということを示しているのにすぎない。人が多すぎると起きることは、喰い物の味がよくわからない人口も多いということであり、そういう人をターゲットにしている(いわゆる「情報を食わせる」店)もその分たくさんあるということだ。そういう店はとにかく口の端に上りやすいということもあるので、東京を代表している味と勘違いされがちではある。

もう一つ重要な事は、東京の街の大部分は元田舎なのである。東京という区域は広すぎて、地方ほど店が集中していない。普段住んでいるところは新興住宅街もいいところで、そんなところにある店の大部分は東京の味ではなく、その店(あるいはその地域)の味として認知されているに過ぎない。だから、東京には東京の味というのが(庶民的な意味では)ごく一部の地域にしか存在しないのだ。その一部の地域も観光地化した結果として庶民的ではなくなっていることも多い。

なので、東京の味というのは銀座や浅草の高級な料理であり、新宿や六本木のおしゃれな(あるいは超高級な)店のことであるとも言える。

とにかく、「味」を語るには東京は広くて新しすぎる。特定の街において、特定の方向性の安くてそこそこ美味しい店という条件で店を薦めてもらえば、地元の住民が適切な店を推奨してくれるだろう(ただしダシよりタレ文化であることからは脱却しづらい)。じゃなければ吉野家松屋行っとけ。東京はそういう街である。