新聞を読まない習慣で失ったもの

アルファブロガーの人も新聞を読まない宣言をしちゃったりと新聞離れの進む昨今ですが、ヘビーなネットユーザーならぬ一般人が新聞を読まないことは社会問題なんてどうでもいいという宣言に思えてしまいます。
今日の朝、ホワイトカラー・エグザンプションについての記事を新聞で読んだのですが、それまでもそれなりに報道はされているわけです。先日、チーム内のミーティングのときにこの話題をちょっと出してみたら、ほぼ全員知りませんでした。こんなに話題になっているのに!
新聞に書いてあることを鵜呑みにせよという話ではありませんけれども、社会の関心ごとを横断的に取り扱う単一のメディアというのは新聞がもっとも優れていると思います。もちろん、新聞に書いてあるようなことはウェブ上でもいくらでも確認できるし、話題になっていることがほとんどです。でも、情報が多すぎると、人は自分の関心ごとのあるニュースしか目を通さないし、そもそも通す余裕がありません。自分のはてブもお気に入りだけ見ていると非常にトピックが偏るわけで、新聞系サイトも必ず目を通すようにはしています。しかし、新聞は(あえて報道しないことで何かを隠すことはあるけれど)バランスの取れたフィルタリングをあらかじめしてくれる、横断的・包括的なメディアの形式としてはいまだに結構優れていると思うのです。ぱらぱらとめくるだけでなんとなく世の中の流れがわかる。
ウェブページの一瞥したときの俯瞰性のなさは今後のUIの革新などで次第に改良されていくのでしょうけれども、「情報はネットで十分」と思っている人は、自分の情報源や関心事が隔たっていないか、もう一度確認したほうがよいんじゃないでしょうか。もちろん、十分に社会の問題について言っている人も多いと思いますので、確認までに。自分も含め。
ところで、今の情報の氾濫状態が、関心ごとのあることにのみ目をいかせ、いろいろな社会問題について一人一人が問題意識をもつことを妨げる罠になっているのでしょうか。それともみんな本当に自分がその場を生きることにしか関心がなくて、将来こうなったらまずいよね、とかそういうことを考えなくなっちゃっているんでしょうか。敷かれたレールの上を押されるがままに滑っていると思っている人は、レールの先が崖になってないかどうかも、気にしたことはないんでしょうね。
新聞の話に戻りますが、メディアに対して一般消費者がお金を使わなくなると、その資金源は広告に頼らざるを得ません。広告を見ることでコストが下がることをメリットとして享受してきた消費者は、その広告収入に頼るということが生み出したバイアスの影響を受けてしまっていることになります。いまや大新聞ではこの構造は覆しがたい。自業自得の感もありますが、今後ウェブなりほかの何かが新しいメディアとして社会的にも機能するようになったとき、同じ轍を踏まないようにしていくには我々がそれを求める必要がありますね。