南雲和夫(本物)先生の主張に小市民的に反論というか自分の考えを述べてみる

まあまずはこちらをお読みください。
南雲和夫(本物)の怒りのブログ―根源主義者の主張(無断転載禁止) 2ちゃんねるを擁護する珍論をめぐって
話がかみ合っていないというか、主張のポイントをあえてずらしているようにも見えなくありませんが、簡単にまとめると

  • ※者は話者に関わらず、主張の内容のみを評価の対象として議論すべきと考えている
  • 南雲先生は「言論」を行うにはそれに先立って責任を負うために実名を明らかにすべきと考えている

というわけで、「話の内容」と「話をする資格」のどちらに重きをおくべきかで完全に意見が割れてしまっているので、これはもう絶対にかみ合わないですね。それはともかく。
当該の「死ね死ね詐欺」の件については個人の情報を無責任に晒したという意味では匿名で責任をもつことのできるぎりぎりのラインを踏み越えたように思うことはあります。(厳密に言えばそうではないとしても)ブログと違って単に匿名である以上の匿名性(複数人格の集合体としてね)を持つ2ちゃん住民において、その匿名性は少なくとも言説としてはあまりに責任がないのは確かです。特定のIDについて非難しても次の日には変わっているわけで。
で、僕もこうして匿名で書いている(といっても緩やかにリアルにつながる手がかりはあります)わけですが、『実名でない「書き込み」が何の責任も負わない』という主張自体は非常に違和感があります。社会人として堂々と実名で書け(そもそも社会人しか意見を表明しちゃいけないのかという問題はおいておきますが)というのは逆にいうと、「書いたことで発生した問題には社会的な責任を取れ」というように思えますが、さて、社会的な地位として言論人たり得ない我々はどうやって社会的な責任を取るのでしょうか。ブログで名誉毀損で訴えられたから会社を辞めました、などという話はまああってもおかしくないし、本来的には正しいのかもしれませんが、もちろんその地位を言論によって取り戻すことはできません。しかし、言論人として社会的地位を持つ人であれば、その地位は言論によって取り戻すことができる可能性が大です。つまり、社会人として依拠するポイントが全く違うのでその時点で「行為に対する社会的責任の取り方」が対等ではありません*1
じゃあ、どうやって言論人でない社会人が立場を確保するかというと、極論を言えば「言論人」としての人格を匿名によって通常の社会人としての自分とは別に確保することによって行っているといえます。これはもちろん、実名より有利なことは自明です。この場合、実名のほうが社会的な責任を取るコストが圧倒的に大きい。匿名の側は今まで築いてきたものを無にする覚悟があれば単にその名前での言論から身を引けばいいけれど、実名は生活の基盤であるからそうはいかないということになります。結局のところ、実名対匿名では責任という観点では本質的に対等な関係は維持できません。実名でやっていても実のところある程度ネット上では仮想人格と目されている人*2もいたりしますが、それは特殊な立ち位置でしか成立しないから微妙ですね。
というわけで、社会人としての立ち位置が違う人どうしで同じ責任の取り方ができない以上、言論人としての人格=社会人としての人格でないとならないという主張は「言論は社会的言論人にだけ許された特権なんだよね〜」と言ってしまっているように思えてなりません。もちろん、そこに至るまでの努力と人生に占める割合が我々より多いことについては素直に賞賛したいと思いますし、それがもっとも重要だと考えるのであれば、そうでない人の言論などはなから相手にしなければよろしいかと思います。
もちろん、匿名ならではの「無責任な放言」が無段階に許されるものとは思っていませんが、ネットでの匿名は最終的には匿名を守れる保証がない以上、実際に訴えられたり、刑事事件になってしまう類のものとは別の問題だと思います。
少し観念的になってしまったかもしれません。ちゃねらーと一般ブロガーをくくりすぎたかも。もしかしたら南雲先生は自分は「職業的言論人」ではないと認識されているかも知れませんし。エントリを読んで得られた感想と僕の個人的な考えということでした。
なお、次のエントリの最後の節には同意ですね。そもそもこのエントリが誹謗中傷を匿名で行うことについてのみターゲットにしているのであれば、あえて考えてみるような話ではないのですけれども。

*1:もちろん、言論人としての社会的な責任の取り方が、とりあえず飯の種としての「言論人」を辞めるであれば対等かも知れませんが

*2:個人的な見解ですが弾さんとか