個人の感想をいちいち気にしてたら政治はできないのだけれども

「健全」という言葉に対しての反応についての僕の見解として、言葉の意味についてのみ論じてみたのは、その言葉が巻き起こした反応があまりに主観的なバイアスがかかったものばかりだったからであって、僕個人のあの発言に対する感情としてはどちらかというと不愉快ではあった。でも、「そういう点を問題とする事自体不愉快」的なことを言う人もいて、正直そんなんで日本は大丈夫なのかと思ったりもする。
社会というのは個人の集まりであるから個々人の発する感情というのは軽視してはいけないものであるのは確かだが、人間が社会というのを作り上げてきたのは種としての最大の利益を得るためには個人の感情を優先してはいけない部分がたくさんあるということが経験として積み重ねられた結果であると思うので、その点で理性というのは個人としての立場や感情を達観して社会としての利益を考えるために与えられたものであると考えている。
例えば医療の問題にしてもそうだし、教育にしてもそうだ。思うに、かつてはその社会の一員としての自分を考えるという行為は感謝という気持ちに支えられてきたのではないか。見方を変えると、社会という構造を維持するためには暗黙的に抑圧されている部分がどうしても生じるが、社会という存在が当たり前にあることが長すぎて、自然に存在するものと勘違いしているのではないか。個人主義を履き違えると、社会とは利用するものであるという意識が芽生え、自らの利益を要求する対象になってしまう。
健全といわれるのが不愉快という人はじゃあ社会というのはどうあるべきと考えているのか。思想を持つべき自由は保障されているが、それはそれを理由に弾圧されない自由であり、その思想に他人が配慮しなければならないという権利ではない。愉快とか不愉快とか、そういう次元で話すのは政治の世界ではないはずだ。だから、個々人の要求を聞くための政治など出来るものではない。全く無視することはできないとしても、政治家としての自分のビジョンを進めていくためにはどうしても切り捨てるべきものが多数ある。
そういったときに、ネガティブな感情を引き起こす発言を政治家はしてよいのかどうか。これは戦略の問題であり、つまり政治家の政治家としての実力がどう発揮されているかという問題だ。都知事なんかは僕はとても指示できないが言動については計算されているように思える。ターゲットが明確で、それ以外のターゲットは切り捨てても政治力が失われないという計算があるように思える。そういった計算ではなく天然な言動として健全だとかそういう言葉が出てくるのであれば、それはやっぱり不用意なわけで、ネガティブな世論を誘導してしまうということは政治力(政治家力といったほうが良いか?)が足りないという事実を表明しているように思える。
政治家にはもう少しスマートにやって欲しいと思うし、我々一般市民はもう少しだけ社会目線を持つべきだと思う。間違っているというのは構わない。けれども、その言葉が自分の利益や感情「のみ」から出るものであれば、単なる身勝手に過ぎない。