なぜか身悶えしつつ、思う

今こそ見なければ良いメソッドを全面的に適用するべきなんだけれども、それでも、いや、見てるというほどまじめに読むこともできていないんだけど、無視できない。無論、積極的に参加するつもりはない。本旨については。ただただ、無性に悲しい。なぜ、僕が悲しまなくてはならないのか、全く筋も通っていないのだけれども、どちらの側が言うこともなぜか僕を傷つけている。そのことについて文句を言う筋合いはもちろんないし、そんなつもりはない。
同情なんていうものでもなく、ただ、そのやりあいの中で、自分がなにものであるかを思い、なぞらえると、何かを責められているようにも思えるし、それをもって共感と言うことはしないけれども、責められるべきことでは無いよなあと思ったりはする。
こういう問題で、大声で叫ぶって言うのは、ネット以前にはあまり考えられなかった話であって、多分、叫ぶ方も、聞くほうも、規範としてどうあるべきか、というところにまで到っていない。現実であれば、幸せを語る際に、語りかける直接の相手がいるわけだから、今まで培われてきた社会のマナーの範囲で配慮することは比較的容易なんだけれども、ここではそうではない。だから、どうしても不特定多数を想定しなければならないのだけれども、それでは何事も叫べない。だから、これは結局のところ受けて側の問題であるべきだし、事実そうだろう。だから、叫ぶことは自由であり、その叫びに対して更なる反応をすることも自由なんだけれども、その叫びが負の連鎖である場合に、どうにもならない。受け止めて更に叫ぶと言うのは、一つ、最初の受けて側としての問題であるところに抵触することであり、受け止めた時点でどうしても叫び返さなければならないという判断がなさせているべきだし、その場合に叫ぶことは、叫ぶことの自由が一つ厳然として存在はするけれども、それでも、どう受け止めたか、の表出であるから、どうしても受けて側の問題と言う点からは離れられない。
行為そのものは、常に自由であるべきだし、そのことをどうこう言うこともすべきではないと思う。原則として。受け手として過剰であることについて、どう評価すればいいのかは、正直わからない。そこを評価すること事態がまた、受け手として過剰なのではないかと思うから。結局原点に立ち戻ると、見なかったことにするしかないのではないか。
それでも、そんな叫びが耳に入ってくるたびに、いろんな人の正論の部分が、僕の無力を、あるいは、僕の持てる同じような問題を、あるいは、ある点では恵まれている僕を、あるいは、僕の思考方法そのものを、責め立て、傷つけていく。無論、ターゲットは僕ではない。けれども。
叫ぶ人は悪くない。これが原則だと思うし、それに呼応して叫ぶことも問題ない。ただ、こうやって言明している僕を含めて、傷ついたって言うことを他者に言い募るのはあまり意味がない*1
呼応するってことで一つの、受け手としての判断があって、読んでしまって喚起された自分の感情をもてあますことは仕方がないのだけれども、それを叫ぶことで他人にまたそのような感情を喚起させるかも知れないと言うことに配慮するのは、表現者としてではなく、受け取り手として行うべきことだとも思う。オリジネーターとして、何かを表現するときにおいて、その配慮をすることは表現の制限に等しいけれども、呼応者としては、そこに制限があってもいいように思う。
こうして、受けての問題に回帰するのは、ウェブにおいて、自由でありたいと思うことと、他人に配慮すべきと言う気持ちの、どうしようもない妥協の産物ではあるけれども、そして、その基準はもちろん僕個人のものではあるけれども、どこかで線を引かないことには、無法地帯にしかなり得ないわけで、全力での殴り合いを肯定する場でもない以上、規範と言うものが最終的には存在することになるだろう。
ネガティブな話だけではなく、ポジティブな話にポジティブに呼応することも例外ではない。呼応することに、受けて側の判断は常に付きまとう。
基準は決められないし、配慮しろとも言い難いけれども、相手がどう言ったかを理由にはしないで、都度都度の判断によって、叫ぶかどうかを決めて欲しいと願う。

*1:ならお前も言うな、ということだけど、雑感としてつぶやくぐらいならありなんじゃなかろうか