意見が変えられない件について補足

どうも真意が伝わってない気配があるのであらためて。
僕が思っている事としては、議論そのものは大いにすべき、なのですが、意外と議論自体意味ないと受け取られている気配があります。論点はそこではなく、それを通して相手の根本的な考えを変えるのは困難だと言うことなのです。価値観や思考の方向性が違う人の間で議論をするのはなかなか難しいですが、そこで浮き彫りになる事(考え方の差異とか)は議論として非常に重要です。そのような差異の溝を埋めていくのが議論の目的とも言えるのですが、お互いに譲れない一線に抵触したときに、それをどう扱うか、と言う所でこの問題が出てくるのですね。
あくまで相手の考え方を認めず、自分の見方で相手を解釈するのは、確固たる考え方をもっている人としては気持ちのいい行為かもしれないし、なんで分かってくれないのだろうというもどかしい気持ちかもしれないし、まあ色々あると思いますが、それは通じ合うまたは変えられる事が前提なのではないかな、と言うこと。
そのことは悪いことでは必ずしもないけれども、自分の価値観を無理やり相手に当てはめて議論するのは失礼と言うか、あまり意味のないことに思えるのです。
論理的に考えてこれが正義なんて言っても意味ないのですよ。その論理が依拠しているところは所詮価値観に過ぎず、普遍的になり得たとしても、例外は存在し。
その価値観の相違においては論理の価値は相対的に低くて、そこを攻めても、話が行き違うだけ。相違しているという前提を相互で確認してからでないと何にもならないのです。
僕があのエントリを書いたのは、まさにその典型的なすれ違いを見たからであり、そこで繰り広げられた議論は揚げ足とり合戦以外の何物でもなかったわけです。と言うか、説き伏せようとしている方が一方的に矛盾するというか、筋の通らない話をしていたのですが。だって無理ですよ。一番重要なところを外した議論なんて。そこに気づくのは自分自身に対する客観性を充分に確保してないといけないのですが、それはまあ難しいのですね。少なくとも自分の考え方が普遍的なものであると言う認識はあってよいけど場合によってはすっぱりと捨て去るくらいじゃないとね。
ある議論の空間に固執する人は同じ価値観を持った人と議論していればよいのです。価値観自体を相手に押し付けるための議論はあまりに不毛だと思いますね。