消費されるコンテンツ(3)メディアの先へ

聴覚・視覚から入るコンテンツであるのが映像であり音楽であり、お話であり、絵画であるる。触覚もまた、それらの芸術に、直接的、あるいは間接的に寄与するものだ。
一方で食も一つの芸術として、味覚や嗅覚を刺激する。食は生きていくための欲とも結びついているため、記録を繰り返し楽しむようなものではないけれど、再現性はあるため、レシピとして固着される。しかし、原材料や気の遠くなる製造過程は希少価値とも結びついて、コンテンツの価値を保っている。メディアが次に切り崩すとしたらこの辺だろう。欲により密着したコンテンツは、一方でそれとは別の本能や、人が人として成り立つための精神により解釈される芸術たちを駆逐してしまう可能性がある。少なくとも、消費と言う面では。社会として欲がある程度抑制されているのはリソースに限りがあるからだろう。もっとも睡眠欲に関しては人の手によりリミットが外され、眠らなくてもよい状態を作り出すことは可能になっている*1。あるいは、これらと協調した新しい表現形式が生まれるかもしれない。単に「リアル」なものではなく。
しかし、いくらテクノロジーが進化しても、人間は5感しかもっていないし、それを刺激するメディアはどんどん開発されてきた。この先、全ての感覚が記録可能になったときに、表現形式の進化は止まるのだろうか。メディアは記録でしかない。再現される感覚が制限されている以上、記録できる種類は増えない。
何か新しい感覚が生み出され、それを整理して一つの概念にまとめることが可能になり、そこでの表現形式が生まれる、と言うことはちょっと今は想像し得ないけれども、人類が文字を得たように、今はまだ抽象的に過ぎない感覚が体系化されることはもしかしたらあるかもしれない。
この先はあるのかどうか。今のことも見えてない状態でおかしな話ではあるけれど、無限の可能性があることをもってアーティストへの期待としたい。何か、僕らの価値観をぶっ壊すようなことをやってくれ*2

*1:壊れるけどね

*2:ただし平和にね