消費されるコンテンツ(2)コンテンツは体験へ回帰する?

さて、これから。一つの道として、体験への回帰が良く挙げられる。

ツアーと楽器に共通して言えることは、使い古された言葉ではあるが、「体験」ということになるだろう。コンサートに参加することと、自分で楽器を演奏すること。両方とも「唯一無二の体験」である。ニコニコ動画でコメント祭りに参加するのも、そうした体験の一つだと言えるだろう。コンテンツは今や、体験する、あるいは体験を共有するための、トリガに過ぎない。

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僕は、この体験への回帰はどうも幻想ではないかと思う。少なくとも、体験によって「売上が上がる」ということは多分無い。なんども言うように、娯楽にかける費用と言うのはそれほど変わらないはずだから、別の形でのパイの奪い合いが起きるだけだ。コンテンツの価値として、固着したメディアと、ライブのどちらがすぐれているかと言う議論は意味が無いことは以前触れたとおりだ。アーティストの収益として本当にライブが相応しいか、というのもあるけれど、もっと大事なのはアーティストとして成し遂げたいのが「ライブなのかどうか」という点だろう。
僕が思うに、ばら売りが出来るようになったことによるアルバム不要論や、宣伝でばら撒いてライブで回収、というようなものは全て「音楽で如何にして金を稼ぐか」というところが出発点にある議論だ。そのことを否定するわけではないけれども、それが次の世代のモデルだ、と言い切ってしまうことには抵抗がある。むしろ、収益モデルとしては退化ではないかとも思う。もっと退化したところにパトロンシステムがある。ここで重要なことは、著作権とメディアによる収益モデルというのは、活動し続けなくても収益を生む可能性がある。一方で、ライブはできなくなったら一銭も入らない。パトロンシステムは気持ち次第かも知れないけれども、活動しないアーティストにただ金を与える、というのは業界に対する投資にはならない。結局のところ、生活を守るレベルの話になると、継続した何かを売らなければならないのだけどバラ売りは小ヒット以上を続けないといけないだろう。
一つの期待として。音楽は、人間が得た根源的な芸術の一つである。だから、どんなに他のコンテンツ、特にコミュニケーションという最も時間を消費するものにその時間を奪われたとしても、音楽が過去のものになることはありえない。そう思っている。そういう意味では、なかなか日常にならない「志の高い音楽」だけではなく、消費される音楽、常に身に纏う音楽というのも結局は廃れていくことは無いと思う。
もう一つ。僕は体験への回帰ということへの疑問を、現在のテクノロジーから判断してそれだけでは意味がないとしたのだけれども、元々レコードが存在する前とあとでは音楽は大きく変わった。ライブだっていつ時と場所を越えるかわからない。映画館的に(擬似的にほぼ)直接体験ができるようになったりするのであれば、別の収益モデルもあるだろう。そして、収益の話は本題ではない。仕掛けこそが一つの表現形式になる。
まだ「この先」のはっきりした形は見えていない。誰よりも早く「この先」を捕まえた者が、次の時代を作るだろう。