円盤になった時点でコンテンツとメディアは分離した

著作権なんて、所詮はメディアからのダイレクト再生が可能な、静止画のみを用いたコンテンツだから可能だった、ということなんじゃないかな。

そもそも「円盤」と中のコンテンツ(この場合データということになる)を明確に切り分けられるようになったのは、パソコンとインターネットと携帯電話が個人レベルで普及するようになったここ十数年くらいの出来事である。

http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20090202/1233564287

未だに、小説等はその優秀な再生装置である書籍形態として受け入れられている。一方で、音楽は録音技術の登場時から、再生装置を伴わない形でコンテンツとしての体裁が作られた。もちろん、コストを考えると当然なんだけど。例外というと、オルゴールの類のものか。
それ以前には楽譜というものも音楽のコンテンツそのものとしてあったけど、これを再生する行為は技術を要する。言葉を読む技術よりはだいぶ高度な。そして、再生技術によって味わいが違ってしまう(といっても、小説なんかも実際には読み取り能力の差はあるのだろうけれども)。
だから、レコード、CDの類は、コンテンツの再生の記録、なのかもしれない。われわれはそいつをさらに再生して聞いているんだ。ちょっと言いすぎかな。編集などの行為はコンテンツの再構築でもあるから、再生そのものの記録ではないし。そもそも、コンテンツ自体は「再生」ではないかもしれないけど。

本という再生装置も含んだメディアが優秀だったことで、メディアが著作権を持つという誤解が生まれたのかもしれない。ただ、こうやってウェブ上に出回る文章だってコンテンツなわけで、また、用途によっては書籍よりも電子データのほうがありがたいこともある。となると、文字を操る芸術だからといって書籍である必然性はない。それでも、再生手段とパッケージが分離している、音声・映像コンテンツと比べると、問題が少ない。
もしかしたら、ダイレクト再生可能なパッケージの形態ができたらメディアとコンテンツが再び一体化することが出来るのかもしれない。でも、メディア側の駆動力ゼロで人間が読み取れるコンテンツって静止画しかないんだよね、今のところ。