僕らは「宛先のある善意」で生きていたりもする

日本においては、会社の社会における機能として、社員を養う、というのは結構重大なものと捉えられていて、そこがある程度日本の社会風土の独自性になっているのかも知れませんが、農耕民族的であり、足るをしるということが日本人の美徳であると考えている僕のような人にとっては重要な要素でしょう。
先のエントリ(バイキングが食べたいだって?お前金持ってるのか? - novtan別館)は、別にdankogai自身にいちゃもんを付けたかったわけではないけれども、バイキングのたとえで言うと、一品増やしている、というよりは、「一品当たりのカロリーを上げました!みんな腹いっぱい食べなくても満足できるよ!」という料理に内容を変更したけど、結局料理を厚かましく奪っていく人たちが、腹いっぱい食べて肥え太ることで終わっちゃいました、というように見えるんだよね、という想いが書かせたエントリであります。あ、こういうのはいちゃもんというのか。
会社で、「こいつを辞めさせて他の人の待遇を上げたり、いい人を採用した方が絶対効率がいいし、出来ることも多いなあ。でも最低限のことはなんとかできているし、本人がこれ以上を望まないのであれば、放り出せないよなあ。なんとかこの人にもうちょっと出来るようになってもらうにはどういうポジションがいいんだろう」とかそういうことで悩むことは良くあります。ええ、対象の大半は年次が上の人ですよ。
そういう会社は成長しないから転職したほうがいいかな、と思うこともあります。でも、縁というのは簡単には振り払い難い。というか、こういう状況の中でも何とか上手くまわしていくのが、使命、という感もあったりします。後輩が育ってくれば、もっと成長していくはず。
そうやって作っていった土壌を例えば買収とかで必要な人材以外ポイ捨てして効率化、とかいうのはある意味略奪で、まあビジネスなんて戦争だって言ってしまえばそうなんだけど、戦争しなくても生きていけるのにあえて戦線を拡大するというのは欲の部分ですよね。win-winなんて一時期よく言われたけど、じゃあ誰がloserなのか。勝者には敗者の姿が見えないだけなんじゃないかと思うのです。
多分、みんなが少しずつ負けているくらいが一番丁度いいのです。でも、それだと世の中が成長していかない。だから、勝者はいても良いと思います。でも、その特権的な部分を世の中の原理にしてしまうような言説は、(あくまで僕個人のものですが、)僕の世界観から見ると悪魔のささやきに思えてしまうのです。
僕は勝ちに行かなかったことで、多少稼ぎという面では損をしているとは思っていますが、そのことは僕の人生の価値にはなんら差し障りのないことです。そしてこういう人たちも、社会を支えている一部なのですよね。
バイキングのお皿を増やしてくれる人も、取り方のレクチャーをする人も、そもそも安いフルコースを提供しようと頑張る人も、いろんな人がいて、単に強者弱者という論理で計れるほどのものではありません。
※自分自身含めて、あんまり一般化して語らないようにしたいとは思っているのですが、こういうのは得てして一般化してしまいがちですね。
せめて、身の回りにおいては、善意を宛先付きで。そして、それ以上の余裕があったら宛先のない善意も考えたいものです*1

*1:これが本来の政治と行政の機能のはずなのですが、日本の政治や行政は、宛先があることが多いですね