政治的発言を制限するもの

基本的に、政治的発言というのはある立場において、如何にして社会から自分の立場にとっての利益を引き出すか、という意図があってなされるものだ。だから、政治的発言というのは根本的に、対立要素を含んでいる。違う立場のものにとって、その発言は否定しなければならないものであることが大いに有りうる。
だから、実名だろうが匿名だろうが、立場を表明したうえでの政治的発言に対して対抗する勢力から「みんなで仲良くコメントスクラム」が届くと言うのは至極当然のことである。もちろん、その対立は覚悟の上で発言しなければならない。
もし、匿名に可能性があるとすれば、現実の立場という色なしで政治を語れるということかもしれない。もちろん、単に匿名になったら色が抜けるわけでもないけれども、理想論や現実論において、立場からの勘繰りを受けないと言うのは重要なことかも知れない。匿名掲示板等での発言を見る限り、常に上手くいくわけではないけれども、立場を離れた議論がされている、あるいは立場がありつつも本音を語る場として機能している部分は確かにあると思う。
医療について語れば医者が現実を訴えに押しかけ、司法の問題について語れば弁護士が大挙して押しかけ、水からの伝言を道徳的に支持するエントリを書けばニセ科学批判論者が押しかける。これは、現実の立場上看過し得ないということから起きる行動だろう。このことは必ずしもよいことだとは思わない。語られていることの中にも見るべきものがあったとしても、ある立場からの問題点が発見されたことでそこを含めて封殺されてしまうことがあるからだ。こちらが実名で、また、批判してくる相手も実名である程度の地位があった場合は特に分が悪い。実名であることはまた、現実の私にその思想を持っているという属性を与えると言うことだ。このことが自分の立場において不利な状況をもたらすことは多々ある。となれば、政治的発言を匿名で行うことは、防衛の意味では至極正しいことといえなくもない。
無論、「ウェブで政治的発言をするには人生を背負うほどの覚悟が必要だ」という実名論者もいることだろう。これは、政治的発言をするハードルを上げ、政治談議を抑制し、すなわち人々が政治に対して考え、語り合う機会を奪い、真の民主主義国家から遠ざけるという可能性を孕んでいる。コメントスクラム的な圧力と同様、実名化圧力は話題を制限する。
「政治向きの話をしなければ炎上しづらい」というのはだから、正しいだろう。そして、立場や属性を離れて政治談議をしたくとも、実名では大概不可能である。こういった類のものがウェブにとって必要か不要かというところに匿名の是非の一つの論点があるだろう。