大野病院事件に思う、「事件の真相」とは

本日一審判決が言い渡されました。「帝王切開で死亡」というタイトルが各紙に踊っていましたが、帝王切開そのものではなく、その結果判明した別の要因(癒着胎盤)のためですよね。
判決理由福島地裁はこう述べています。

他方、D医師、E医師の産科の臨床経験の豊富さ、専門知識の確かさは、その経歴のみならず、証言内容からもくみとることができ、少なくとも癒着胎盤に関する標準的な医療措置に関する証言は医療現場の実際をそのまま表現していると認められる。
そうすると、本件ではD、E両医師の証言などから「剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する」ということが、臨床上の標準的な医療措置と理解するのが相当だ。
検察官は癒着胎盤と認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術などに移行することが医学的準則であり、被告には剥離を中止する義務があったと主張する。これは医学書の一部の見解に依拠したと評価することができるが、採用できない。
医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反した者には刑罰を科する基準となり得る医学的準則は、臨床に携わる医師がその場面に直面した場合、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性がなければならない。なぜなら、このように理解しなければ、医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬(そご)があるような場合に、医師は容易、迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになり、刑罰が科される基準が不明確となるからだ。

http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200808200207.html

なんとも評価しづらいところです。普通に読むと臨床上の標準的な医療措置であることが一つのポイントであった、ということです。今回の症例は元々レアケースであると聞いています。果たして標準的な医療措置がありうるのか。ここで言っているのは今回のケースに限らない癒着胎盤の措置のことなのかな。
一般性を持っている、ということが重要で、逆に言うと、一般性を持ち得ない類の治療であったならばどう転んだかわからない、ということなのでしょうか。

さて、それはともかく。もし、裁判に事件の真相究明を求めるのであれば、ここで述べられたことが、真相である、というのは客観的には自明ですが、遺族の思いとしてはそうではないでしょう。不幸において、責任を押し付ける相手がいないということが精神的負荷になる、というのはわかります。が、不幸の連鎖を求めてはならないだろうし、大なり小なり、人生諦めの連続です。
そう、不幸だったのです。誰に責任があるか、を突き詰めていくと、風が吹いたら桶屋が儲かるくらいの理由は見つかるでしょう。不幸であったことが事件の真相であれば、誰も傷つくことなく、事件が収束するはずなのですが…
我々、非医療従事者にとって、このような事件について被告の側で当事者になることはないと思いますが、医療ミスの(あえてこういうと)被害者になる、ということは十分に考えられます。その時に、どういった態度をとるのか。当事者になったときの感情についてはなって見ないとわかりません。しかし、その感情をコントロールするためのベースとして、様々な事件に対する思考実験を行ったりすることは有用だと思っています。