遺族のメンタルセーフティーとしての宗教はありえるか

(僕のに限らない)大野病院の事件の判決を受けて書かれたここ最近のエントリに、遺族の感情を何とかするのは宗教の役目かな、というような主旨のコメントが付いているところをしばしば見ます。
確かに、もっともな話で、正直なところ、遺族に本当に必要なのは、何らかの形で決着を付ける(=納得する)ことであって、真実を知ることではないんですよね。で、宗教が納得の元を与える機能を持っているかもしれない、ということはあります。
ただ、世界に名だたる「無宗教国家」日本において、それが十分に機能するかという点についてはいくつかの危惧があります。結構な数の人が、普段は宗教的メンターを持っていません。葬儀のときにお坊さんの説諭を聞くことはあっても、人生で直面した何かについての導きを求めたりはあまりしないでしょうし。で、むしろそういう機能を前面に押し出しているのが、怪しげな新興宗教だったりしますよね。
じゃあ諸外国ではきちんと宗教がそういうところをフォローしているか、というと微妙ですが、事実関係による責任問題と、運命における納得感は上手く切り離されているようにも見えます。
欧米的な合理主義を導入した際に、既存の、アニミズムに近い宗教観から離れたけれども、代わりの宗教観を導入できなかったことも原因の一端かも知れません。そのへん詳しくないから想像だけど。でも、そうだとしたら、日頃の振る舞いにおける、「自分にとってだけの」合理性を導入するか否かを規定する、宗教的世界観によるモラリスティックな基準がないことが「モンスターXX」を生み出す原因なのかも知れませんね。
というわけで、宗教に遺族のメンタルケアを全面委託することができるのは限られた人のみのようにも思えるんですよね。別に、宗教そのものである必要はないと思いますが、個々人がある程度しっかりとした世界観を持っていて、その中に、不幸は必ず起きるものだし、その対象が自分である可能性も十分にある、ということをきちんと取り込んでおかなければならないのかな、とも思います。