予見可能性と責任

全ての「事故」は予見可能性についての客観的評価によって責任の軽重が問われ、処罰が下されるのだろう。医療問題にせよ航空管制にせよ。で、良く問題になるのはその客観的評価が専門家でない司法によってなされ、必ずしも合理的でない結論が下されることだよね。ただ、客観的評価というのはそういうもので、材料が恣意的であれば恣意的に誘導された結論しかでない。そういった意味では、真に客観的な調査というのは可能なんだろうか。結局のところ「〜だと思う」レベルの判断の積み重ねに過ぎないのかもしれないのは神ならない人間の限界なのだろう。まあドライブレコーダーを付けろという話か。
僕は先日航空管制についての裁判での管制側のコメントを批判したのだけれども、「いい間違いを処罰されたら仕事なんてできない!」という言い草であり、そんな言い方をするものと医療問題を一緒にしたら医療問題の程度が下がるよ、ということなんだよね。まあ、言い草は記事のせいかも知れないから言い過ぎかも。あと、視点によっては一緒な部分もあるし、「何でもかんでも同じだとして司法をなじる」のがよくないという話なのかも。ぶっちゃけ裁判員制度がこういう認識の下に行われたら大抵の事故は責任を問われないかも知れない。

末永進裁判長は「キツネがしばしば出没することは十分に予見可能だった」として、キツネの侵入防止柵を設けなかった同社の責任を認定した。

http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20080419hog00m040007000c.html

こういう判決をみると、予見できる全てのものに対して、責任を負わなければならないとする昨今の風潮は誰がコストを負担するかを無視した議論になっているようにも思えます。キツネの侵入についてのコストはドライバーが払っているわけで、最終的に清算する人がこの人だったということで、それ自体は不幸なんだけどね。キツネ防止柵についてのコストを道路側が負担するとき、当然その原資は料金にはねるわけだから、それに同意できるかが経営の問題になるとき、道自体がなくなる可能性もあるわけです。

高橋さんの両親は04年、旧公団と後続車を運転していた男性に計約8920万円の賠償を求めて提訴。1審判決は男性に約1970万円の支払いを命じたが、同社の責任については「キツネ侵入防止柵は全国的に普及していない」と否定した。

http://mainichi.jp/hokkaido/shakai/news/20080419hog00m040007000c.html

後続車に責任が問われるとしたら、スピード出しすぎてたか車間詰めすぎていたか、いずれにしても、何らかの落ち度があったことが認定されていたからでしょう。これも「事故」なんだけど、車を「運転するリスク」に織り込まれている責任。
何かを提供するときにあらゆる可能性が事後的に予見可能とされるのであれば、すなわち日本におけるサービス提供リスクというのは事前に評価することがものすごく難しい。銀行なんかのコンプライアンスチェックはそれをしないだけで預金金利が0.5%くらいは上がるような気がするほど気の遠くなるような作業をしていますし、例えば一ヶ月定期の更新通知なんて省略できたら郵便料金がいくら削減されることやらと思うんだけど、そういうものでもない。
サービスとは完璧なものであるという原理に基づいた事後評価をされるというのが制度の硬直性や費用の増大に寄与しているわけで、そのあたりのバランス感覚を司法に求めないというのは健全な話です。司法が経済的合理性で動いてしまっては仕方がない。ところが、アメリカ型訴訟社会は懲罰的賠償金のせいもあるのかしらんけど、司法が経済的合理性を発揮しない原則を訴訟ビジネスのタネにして巨額の金が動いているというようにも見えます。
株と一緒で誰かがこうやって勝訴する(利益を得る)ことで、その原資を社会全体(損をしてた投資家全体)が負担することになる。そして、手数料(弁護費用)で儲かる人がでる。手数料分が社会に還元されないとどこかの丸儲けです。構造的にはそうなっている。だから、行政や企業悪に対する訴訟というのはそれが不当にコストをかけなかったりかけていたたりすることにたいして、つまり、勝訴した結果、社会が負担する原資をさらに要求されるものではなく、行政コストが減るとか、サービス料が減るとかということでないと、勝利者一人の利益になるに過ぎないわけですね。もっとも、このニュースは死亡事故であり、遺族にはそんな意図は毛頭ないとは思うけど。
だから、訴えれば賠償金が取れるかもしれない、ということとその行為の社会的妥当性は、司法による勝訴敗訴の判断とは本質的には関係ないはずなんですよね。司法は、法律に基づいて判断しなければならない。その法律は状況に応じて判断できるようにある程度の柔軟性はあるけれども、本質的には機械的なものです。社会的・経済的合理性を過度に司法に求めるのはどうなんだろうね。もしかしたらその力は罪を軽減する方向ではなく、重くする方向に働くかも知れないわけだし。
書いてて少しわからなくなってきたんだけど、司法に問題があると思っている人はそのプロセスのどの部分が問題なんだと思っているのかな。一つ一つの事例でいうとバラバラなのかも知れないけれども、本質的に。