求めるのは嗜好に対する理解ではなく

理解しがたい嗜好に対して「キモイ」「人としてどうか」的な価値観に基づく受け入れの拒否は仕方ないけど「生きる価値なし。死ね」的な全否定はそれが現実の害悪を伴わないのならば大きなお世話なんじゃないかな。
理解できないってのはある意味人間の多様性に対しての最大の褒め言葉かもしれないな。
現実の害悪については心ではなく行為を取り締まるのが現代の民主主義社会のやり方。行きすぎた表現は仕方ないんだけど、「キモイ」とかいう誰かの個人の恣意的な基準にならないように願う。
表現規制なんて恣意的になりがちだからさ。昔みたいに「下の毛が見えたらアウト」的、客観的事実で基準をおいてほしいもの。