表現の自由にとって「法による強制」はしかたなくないですよ、佐藤秀峰さん
僕もわりと「規制されるのはしょうがない」と考えてしまう方なんですが、そこにはいくつかの基準があったりします。例えば、最近話題のクラブ問題。これってそこで行われる表現やらなにやらが規制されるわけではなくて、あくまで「場」の規制なんですよね。場をわきまえないことに対して場を規制する。橋下問題もそうだし、乙武問題もそうだし、RubyKaigi問題もそうだけど、みんな「思想信条、内心の自由」を大前提として認めつつ、まずは場の問題として、そして倫理の問題としてそれを問題視するわけですよね。
ともあれ、今回の児童ポルノ規制の件については場ではなくモノ(表現そのものを含む)を規制する法律として企図されていますから、その適用範囲が留保なく表現の自由を規制するものでないかどうかを慎重に見極める必要はあるんですよ。
僕は基本的には自由な表現が許容される社会を望んでいます。
http://ch.nicovideo.jp/shuhosato/blomaga/ar248235
これはとても大事な点。基本的「には」というのが留保付きで許容されなくても良い、という認識を示していると考えていいでしょうか。
佐藤秀峰さんはかつてヤングサンデーに掲載されたある漫画についてこうコメントします。
ただ違うのは、それが一般誌に掲載されていたことと、読者としてあまり多くの数が想定されないであろう身体障害者を被差別者に据えたこと、強姦を一般読者に向けて娯楽として描いたことです。
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うん、確かにそれはよろしくないと僕も思います。出版というのは常に社会に対してのある種のアンチテーゼ的な問いかけをすることが可能ですけれども、それを娯楽にしてしまえば堕落であったり、社会ではなく不特定の個に対する攻撃と判断されてしまうことは不思議ではありませんし、実際そうでしょう。
とは言え、
僕にはそれがより罪深いことのように思えます。
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それらの作品に影響され、実際に妹に手を出してしまったお兄ちゃんはどれ程いることでしょう。
最悪の場合、犯罪を助長することにもなりかねません。
これは戦争ゲームは良くないと言っているのと同レベルの考え方ではあります。
ただ、こういう話を聞くといつも思います。「表現とは、他人に影響を与えてナンボ」だと。何人もの文人たちがそれを目指して小説を書き、絵を書き、漫画を書いて来ました。そう考えると、こういう表現を無造作に行うことは他人に対する影響を与える覚悟がなさすぎる、と思わなくもないです。お前は社会のタブーと戦っているのか?それとも無造作に社会を壊そうとしているのか、と。だから、規制は必ずしも悪ではない、と。しかし。
結論として、僕は法の許す範囲において、どんなに差別的、暴力的な表現も許容します。
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ただし、同じく法の許す範囲でどのような批判も許容されるべきです。
という文言には重大な問題があると思います。それは「法の許す範囲」が明確ではないこと、それを明確にすることは表現にとって重大な制約になる可能性があることです。これは、漫画という業界内に閉じた問題ではありません。こうやって商業的な問題とは関係なく言葉を綴る個人にも大いに影響がある話です。だから、表現の自由そのものは絶対的なもので、それに疑義を差し挟むのは現代の法の精神の元成り立っている国のありようを覆すことにもなりかねません。
無論、
あらゆる表現は自由であるべきですが、それはどこでもやっていいということではなく、発表の場所は慎重に選ぶべきではないでしょうか。
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というのは正しいことです。
でも、今行われようとしていることは、「ピノコが肌を露出しているからブラックジャックは児童ポルノ、持っている奴は逮捕!」と強弁できなくはないレベルの話なんですよ。発表の場所を選ぶことで表現の自由が担保される、という話ではないんです。
都の条例の件でも議論になりました。ゾーニングについて反対である人はあんまり居ないんです。現在ある種の無法地帯になっている漫画雑誌についてそういった形での規制がかかったり、表現の本質ではない(これも多分に恣意的な部分はあるものの世の中的にある程度はコンセンサスがあるわいせつ物陳列罪的な)部分で問題になる分にはまだいいと思うんですよね。でも、そうじゃない、「表現」の部分を規制するのは「赤狩り」とやっていることが余り変わらないと思います。俺の正義以外は悪、みたいな価値観が社会全体にまかり通るわけですね。
漫画やその発表の場が未来に向けてマナーを身につける、という佐藤さんの考え方自体には僕も共感を覚えます。しかし、それはマナーであって、法律で強制されるべきものではないですよね。酷すぎるもの(その基準は時代によって違いますが)が発禁になる、というのは昔から今に至るまで普通にあることです。それは個別の事由がある話です。その事由を幅広く敷衍する必要性は果たしてあるのでしょうか。もしかしたら、「ブラックジャックによろしく」は業界のタブーを書いているがそのような話は社会に混乱を招くため発表してはならない、とされる未来が到来するかもしれませんよ。