事件の背景のフィクショナルな構築

何か事件が起きると、その背景を探る話が始まり、自らの普段の主張をそれにかこつけてさも真実かのように拡大解釈して語る、ということは良くあること。
XX論者の人にとって、なんでもXXに結び付けられる事例は結びつけることで、自分の主張を強化することが出来る。もちろん、それが事実である必要はまったくない。もっともらしければそれでよい。
と書くと、これって悪いことのように見えるけど、そうでもないとは思う。ただ、その結びつけがあまりに無理筋な時、本丸の主張そのものが嘘っぽくなっちゃうというリスクがあるだけで。あと、「かもしれない」を事実と断定して書いてしまうとより反発リスクが高まるよね。
逆に、高検が暴走したときの冤罪被害を受けた局長の背景を書いた話みたいにいろんな人がもっともらしいと思ってしまう、でも事実は違う、というときの影響度合いが大きいものもあるよね。
というわけで、事件の背景を自分の都合のいいように決め付けるのはXX論者がXX論を推し進めるためには有用だけど、事件の真の原因を把握し、解決や再発防止を目指す人にとってはそれはとても疎ましいかもしれない。