報道の焼身自殺について

自由報道協会授賞式での例の件、どうやら、謝罪という名の弁解を行ったようです。

私が自由報道協会賞授与式で行なった挨拶について誤解されている方がいるようですので、この場を使って、挨拶の趣旨などについて説明させていただきたいと思います。

自由報道協会賞授与式での発言について

あら、いきなり趣旨の説明ですか…

まず、私の挨拶チベットの高僧の高貴な行為が傷つけられたと思われた方に謝罪いたします。私としてはそのような意図はまったくありませんでしたが、そのような受け止めをされる余地のある表現しかできなかったことは、本業も含め表現行為を糧としてきた者として不甲斐ないことです。故意ではないにしても傷つかれた方に謝罪する必要があります。本当に申し訳ありませんでした。

自由報道協会賞授与式での発言について

うん、意図がなかったことについて十分に納得がいく説明がなされているのであれば、素直に受け入れること隼かではありません(←お前は何者か)
にしても、「傷つけられたと思われた方に」謝罪ってことは、これが受け手の解釈の問題なのだ!と言っているように見えて気分がよくはありませんが…

この手の問題でよくあるのは「誤解を招いたのは謝るけど趣旨は曲げねーよ(それって誤解なの?)」みたいな話ですが、いかにもそのパターンであることが予感される書き出しですね…

そのうえで、今回の発言がチベットの高僧の高貴な行為が傷つけるものではなく、来場された皆さんが笑った対象も、チベットの高僧の行為ではなかったことを説明したいと思います。

自由報道協会賞授与式での発言について

いきなり日本語がおかしいというのはさすがに自ら表現行為が不甲斐ないというだけありますね。僕ら泡沫ブロガーとプロはわけが違うと思っていたんですが…
にしても、来場の皆さんが何を笑ったかまでコントロールできているとはさすがプロです…

まず、私の挨拶を書き起こしてみましょう。

自由報道協会賞授与式での発言について

みんな動画見て文句言っていると思うよ…
さて。

私は昨日、東電の前でチベットの高僧のようにですね、火を、自殺をして私の名前を上げたほうがいいのかなと、悲愴な決意でここに来ているわけなんですが、

自由報道協会賞授与式での発言について

この発言、360度どこから見ても
チベットの高僧は自殺して名前を上げる
という事実の提示です。なので、これが批判の大前提。そして、これを

自虐ネタとして話したうえ、何か、わかりやすい比喩を使おうと考えました。

自由報道協会賞授与式での発言について

と自虐のネタに使おうと考えたようです。そのロジックはといえば

そこで浮かんだのがチベットの高僧が焼身自殺をしてまで中国政府の圧政に抗議する姿です。今年になっても講義の自殺のニュースが流れていました。
(中略)
チベットの高僧のように社会に大きな責任と義務感を持っている者、つまりそのような犠牲を伴う行為を行うことが崇高な行為であるとみなされる者ではありません。したがって、最後の行為としての選択肢からは外れました。

自由報道協会賞授与式での発言について

こんな感じ(さすがに文章を生活の糧にしている方はそうそう誤字脱字をしないものだと思っていますが、焦っておられるのでしょうか…)。
素直に読み解くと、チベットの高僧は社会に大きな責任と義務感を持っているがゆえに、焼身自殺による抗議が崇高なものになる。まあ、それはいいでしょう。

そういう思いもあり、比喩として、チベットの高僧の自殺という表現をしたのです。したがって、高僧の行為に対するリスペクトこそあれ、卑下するような気持ちは一切ありません

自由報道協会賞授与式での発言について

卑下は辞書にこそ他人に対しても使われるように載ってたりしますが、用例としてほぼ100%自分に対しての言葉であることは文章を生活の(ry…まあいいでしょう。これを比喩として用いているというのが主張ですが、さて。
チベットの高僧のようにですね、火を、自殺をして私の名前を上げたほうがいいのかな」
ように、というのが比喩ですから、何を何にたとえたのか。自殺をするということと名前を上げるというのが因果関係として提示されているわけですから、例えられたチベットの高僧にもそれが適用される、すなわち、「チベットの高僧が焼身自殺をして名前を上げたように私も」という文章と読解できますね。
無理に解釈すると「チベットの高僧がその崇高さがゆえに行った行為と同一のことを行うことで、私も崇高な存在に昇華するのだ」と読むことも出来なくない。その場合、チベットの高僧は崇高だが、それを模倣した私は名前を上げることをもくろむ俗物だ、という自虐ネタとは読めなくなるので、はてさて、チベットの高僧を比喩に出す必要があるのか疑わしくなりますね。

ようは、単に「焼身自殺して抗議して名を上げる」とだけ言えばよかったのに、チベットの高僧を引き合いに出してしまったのが問題なわけですね。ようは、単に口が滑った程度の話であり、とはいえ、その対象が公共の場で言うには口が滑ったでは弁解できないような対象だったというだけの話ですねコレは。なので、全力で弁解ではなく謝罪をすべきなんじゃないかなと思いますよ。

チベットの高僧を対象とした笑いではないことは、私の挨拶から「チベットの高僧」という部分を削除しても、同じように自虐ネタとして成立していることから明らかです。しかし、その場合、なぜ、東電の前で自殺するのか、ちょっとわかりにくくなります。ところが、「チベットの高僧」という例を挙げれば、抗議の自殺という意味なんだなということが簡単にわかります。そこで、「チベットの高僧」という表現をしたのです。もし、ベトナム戦争の時期であれば、「ベトナムの高僧」という表現をしたでしょう。

自由報道協会賞授与式での発言について

この弁解は、一番大事なところをごまかしていますよね。なぜなら、チベットの高僧という部分ははじめから必要なかったんだけど、それを入れることによってチベットの高僧を貶める結果を招いたわけです。これではロジックが逆転しています。余計なことをしたのが問題であれば、もともとの意図がどうあれ、余計なことをしたことが問題としてクローズアップされるのは当然です。ここで仮に、みんなが自虐ネタだと理解して笑っていたとしても、焼身自殺=名を上げる=チベットの高僧というロジックがここにある以上、本来すべき反応は「なにこの不謹慎極まりないネタ?」という怒りの表明でしょう。
つまり、会場の人たちにしても、この比喩を認めたという点で同罪なんですよコレは。

なので、これは誤解でもなんでもなく、字義通りに捉えて「チベットの高僧に対しての抽象的発言」とみなし、対象である「チベットの高僧」に全力で謝罪の意を表明しつつ、この発言に怒りを覚えた人々に対して、お詫びするべきなんです。

自分が本来意図していたことに対しては確かに誤解なのかもしれません。しかし、出てきてしまった言葉の解釈について誤解の余地があるとは到底思えません。謝罪を求められているあなたの意思・思考ではなく、発言についてなのです。