はるかぜちゃんはなにと戦っているのか

はるかぜちゃんのソウルジェムが真っ黒になる前に大人が助けてあげるべきだと思うぞ。
世の中に発した言葉は誰かにとっては寿ぎであり同時に呪言である。世の中「子供が生まれて幸せ」と言っただけで子供に恵まれない人からの呪詛を受けることだってある。バカバカ指摘するのは呪いの言葉であるし、それに対する結果責任微塵も感じない人はどうかと思う。一方で、その呪いは実際には言葉を発した自らにも向けられている。しかし、社会的な存在であればよほど暴走しない限りは何か別のもので発散される。子供における社会性はその庇護下にあるという点で大人とは全く異なる。精神的に大人か子供かをことその観点からみると、はるかぜちゃんは間違いなく子供である。大人は死ねという呪詛を自らに向けられたとまともに捉えることはあまり無いと思う。
だからいじめでは無いなんていうつもりはないけれども、どうにも山彦と戦っているような空気になってきてしまっている。
単にやめさせたいのであれば、そこに呪詛の必要はない。その手の話題は一切せず本当に書きたい話だけ発信すれば良いのだと思う。
僕が人の理屈に踏み込む話は実は人の感情にも踏み込んでいるんだということに気づいたのは大人になってから。不良マンガが理不尽なのにある種の共感を呼ぶのは、理屈と感情では感情を優先すると言う現代社会の抑圧からの自由を見せてくれるからだろう。そこで優等生がバカにされるのをみて常に暗い思いを抱く人もいるのだけど。
殺す、は呪いの言葉ではなく、犯罪予告だ。殺す、は通報すべきだ。
死ねは呪詛である。僕らの目に見えないところで今日もたくさん飛び交っていることだろう。
一方で、死ねはいじめでもある。弱者をバカにして発するそれは。少なくとも、子供におけるそれはあってはならないヒエラルキーを子供自身が作り出したという部分を大人が正さなきゃならない。
一方で、子ども対大人において発生するのはいじめではなく虐待でしかない。虐待を避けるためには虐待者からひきはなすしかないだろう。
子供にインターネットをさせるな、というのは保護者としての問題からいうと正しい。子供に夜道を一人で歩かせるな、に近い。そう、一人で全てを負わせるというのはそういうことだ。寄り添って歩いてあげれば良いのだと思う。はるかぜちゃんが危惧している子供に使わせるなと言われることは、自由に大人に相対したいと言うことなんだろうか?だとしたら、単なる呪詛でしかない「死ね」を真っ正面から受け止めてはならない。
でも、実際にはそれによって傷ついているように見えるよね。それはつまり、はるかぜちゃんが間違いなく子供なのであり、周りの大人がそれを何とかしなきゃならないってことだよ。あるいは。
周りの大人がわかってやらせてるんであれば泣きながら舌を出していることを分かってるのでもない限り、いじめの放置と一緒だよ。そういう状況をみわたすと、僕にはどうしてもそこにいじめがあるようにも見えないし、悪と戦う正義の姿を見出してしまう。手段を選ばない類のね。
「おとなはわかってくれない」のだと思う。本当に勇気を出して立ち向かわなきゃならない相手がそこにいるように見えないから。