インターネットが都会と地方の格差を鮮明にする

都会・地方論も定期的な盛り上がりを見せますね。
都心住まいの価値とは何か - よそ行きの妄想
地方都市という地獄 あるいは関東圏の「私が住んでるところは田舎だよ(笑」が如何に残酷かについて - mizchi log
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/01/15/143959

んで、ここに述べられていることについては(両親の実家に滞在はするののの)都会生まれ都会育ちの僕としては特に言えることはないかな。ただ、いわゆる「都会」についても30年前のそれとはコミュニティの有り様も大きく変わっているし、そこに「ある」ものが増えている。まあいいや。

でね、Webの果たしている最も大きな変革というのが、時間と距離を超越したコミュニケーションだ、というのは何度か繰り返しエントリにしている持論。でもそれが必ずしもポジティブな変革だったのか、というのが今日のお題。

まず、インターネット以前の都会と地方の差の伝わり具合。主にテレビによってもたらされるそれは、脚色されているし、鬱屈していない(サスペンスドラマとワイドショーくらいでしょ)。ただ、都会において、地方を呪う、あるいは地方を賛美する地方出身者、という存在があり、その限られた情報源から都会は地方のことを知るのだ。逆に、その人達の帰省によって地方は都会のことを知るのだ。ナマの声、というのはそれくらいのものだと思う。

インターネット以後、情報という観点からいうと地方と都会の差はだいぶ縮まったと思う。が、物理的な位置の問題、あるいはリアルコミュニティーの問題はウェブによって解決されない。そして、知ってしまったことによって「自分が田舎に囚われている」ことがより鮮明になるのだ。都会目線で見ると、田舎の「のどかで平和な雰囲気」が一面では幻想であることを知ってしまった。

でもそれは「夢の様な、あこがれの場所」ではなくなったことを意味している。都会でくらすにはどうすればいいのか、田舎でくらすにはどうすればいいのか。実体験に基づかないとしても、単なる想像上の世界ではなくなっている以上、適応する自分を作り出すことについての可能性をより一層感じられるはず。
つまり、憧れの存在から現実の存在へ、として、一歩踏み出す覚悟を決めるハードルが下がったはず。

そりゃね、知れば知るほど相手のいいところと自分の悪いところを比べて落ち込んでしまうものですよ。あるいは、逆のメンタルによって優越感に浸ることができるかもしれない。いずれにしても、大事なのは「知った」ということ。

知ることができるようになった、というそのことだけでもインターネットの登場は人間にとってポジティブな事件だったと僕は評価している。