名前が持つ「力」とは何か

実名には力があるという。言霊ではあるまいし、名前そのものが力を持つのではなく、それが指し示す個人の力をしらしめる、ということでしかないのは言うまでもない。
個人の力とは何か。例えば、所属。警察である、大臣である。大企業の社長である。例えば、資格。弁護士である、医師である。例えば、能力。あのシステムを作った、あの本を書いた。
その中には世の中には無名のまま力を果たしたものもいるだろう。何を成したかが名をしらしめることよりも重要だ、という人もいれば、自分が成したことを名とともに残したい人もいる。

名が大事、というのは永遠の存在ならぬ人間にとっての不滅のテーマだ。血ではなく家を絶やさないようにするという過去の歴史は、語り継いでもらうことの必要性を表している。
しかし、それは果たして普遍的な考え方なのだろうか。その人を語り継ぐことは本当に全ての人が望んでいることなのだろうか。これも不滅のテーマだ。名ではなく作品が残れば良いと思っている人もいれば、全てを歴史の闇に葬りたい人もいる。社会に対して何かを成したことを誇るかどうか。名前が出るこそが大事という人は、こうやって歴史の影に隠れた人々を無視してもよいと認めたようなものではないのか?いや、そうならないために名前を出すのだ、と言いたいのかもしれない。しかし、このことはひとりひとりの人間が自ら決断するべき重大なテーマであり、社会的意義という名のもとに犯してはならない領域なのではないか。

今回、実名公表の是非がネットなどで大きな話題になった。事件や事故(災害も含め)で亡くなった人を実名・匿名いずれで報道するのかはメディアにとって悩ましい問題だ。遺族の意向も考慮する。それでも、取材は「実名」がなければスタートしない。名前は本人を示す核心だ。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130126k0000m070172000c.html

では、実名がないものなど取材しなければよいのではないか。
所詮、名前を出した報道でできることなど

こうした報道に接し、民間人を巻き込んだテロ行為への怒りが改めてわき上がる。

http://mainichi.jp/opinion/news/20130126k0000m070172000c.html

程度の話でしかない。そして、そんなことは本当に力のある記事であれば名前そのもののちからなどに頼る必要はないだろう。その人が何を成したかなど報道には重要でないのだ。そもそも、真実とはなんだろうか。仮に「海外に飛ばされて使命感もなくいやいや働いていたら事件に巻き込まれた」ような人が出てきた時にどうするのか。恥さらしな人生として糾弾するのか?それとも会社をパワハラと糾弾するのか?彼の人生は良いものではありませんでしたと報道するのだろうか。

何が怒りが湧き上がるだ。キレイ事もいいかげんにしろよ。

実名の力を借りないと人を動かす記事を書けない。そう言っていることに気づくべきだ。匿名化が進む社会は息苦しい?元々無名な我々市井の人間を事件が起きると無理やり舞台に上げているサディスト共の口にしていい言葉ではない。