死ぬほど働いたことを「美化」するのは本当に悪いのか

ポイントがズレまくってる気がする。

確かに、例えば失敗しそうだったプロジェクトを、「死ぬほど働く」ことで蘇らせたという場合には、それを誇りたくなる気持ちもわかる。しかし、「死ぬほど働かなければ蘇らなかった」という点で、そういうプロジェクトは成功の中でも限りなく失敗に近いものと考えるべきだ。頑張った人に鞭打つのはいいことだとは思わないが、それでも「死ぬほど働いた」ことはいいことか悪いことかと言われれば、「悪いこと」である。

「死ぬほど働いた」ことを美化するな - 脱社畜ブログ

別に死ぬほど働くシチュエーションはこんなことに限らないだろう。リスクとリターンを天秤にかけてリスクをとっている人(主にスタートアップベンチャーの人)はそのリターンのために人生を賭けているんだから問題無いだろう。人生のギャンブルをするな、であれば全部の企業は国営で生まれた時から行く場所が決まっていないとダメだね。

問題はそうじゃない。死ぬほど働くということが一般の従業員として「必要なこと」と見做されることだろ。
会社(とは限らないけど)の成長が個人のリターンとしてダイレクトに返ってくる人以外、死ぬほど働くことはリスクとリターンが見合ってないということになる。ぶっちゃけ会社員であっても目標が経営層に入ることであり、そのステップとして必要だと本人が考えているのであれば問題ないと思っている。そうじゃなくて、従業員として過ごしたい人に対して「死ぬほど働かないと失格」と押し付けるのであれば、それは問題である。
もっとも、目標がなんであれ労働基準法の壁を堂々と超える宣言はよろしくないと思うけどね。

採用サイトを見ていていつも残念に思うのは、こういった「死ぬほど働いた」アピールは割とたくさんあるのに、「効率よく働いて毎日定時に帰っています」アピールは見たことがないということだ。

「死ぬほど働いた」ことを美化するな - 脱社畜ブログ

僕は自社で採用サイト向けのインタビューを受けた時に、「波はあるけどたいていは定時過ぎには帰ってアフター5(まあ定時17時じゃないけど)を満喫」的な内容で掲載されたことがあるけどな!観測範囲狭いだけだよ。

あと、「死ぬほど働く」のは目的ではなく過程にすぎないから、成果が出てないと誇るも何もないかもしれないけど、死ぬほど働くことでしか成し遂げられなかった成果があるのであれば、それを出したことは誇ってもいいし、自分として美化することに問題があるとは思わない。

とにかく、他人に「だからお前もやれ」と押し付けなければどうでもいい