「適当」の程度

「プロブロガー」でもない素人ブロガーの僕ですが(ちなみにブロガーを名乗ること自体には違和感はないものの、いわゆるホームページを作っていた時代からの延長でしかなく、当時はウェブマスターを名乗っていたので呼び名自体にはポリシーはないだけです)、何かを発信するということは、そこになんらかの意図や責任があるということは考えています。
ひところ「承認欲求」という言葉が流行りましたが、そういうものも含めて、何かを残したいという意図でものを書く。それは他者にどういう形であれ影響を及ぼす(自分を称賛してもらうことを求める、というのもそれはそれで他者に影響を与えたということですね)わけです。
昨日の対談イベントに感想にも書いたけれども、まあね、僕も適当に思ったことを書くだけですから、大して偉そうな口を利けるわけではないんですよ。ただ、「適当」ということにも程度というのはあるなと。適当すぎると怒りを覚えることもあるんだなと。
昔、酔った勢いで適当なエントリ書いて炎上しかかった時も、言葉の選び方、運び方の問題によって生じている問題ではあって、そこまで含めて「正しいがもったいない」と評価してもらったことが有りました。
何かについて書くときに、大きく間違うのって、大抵の場合は前提について考え違いや事実誤認をしていたりとか、きちんと読めていなかった(誤読していたってことですね〜)というのが原因であって、まあそれはステレオタイプな考え方や知識によって引き起こされている恥ずかしい所業だったりもするわけですが、論理が破綻していない限りはいくらでも修正が利くし、前提が違って答えが違うのは思考そのものがおかしいわけではないから自分のためにも訂正し、必要があれば謝罪し、ということもしますよね。

「いや、そのりくつはおかしい」

ここから議論が始まったり、いろんなアイディアが展開されたりするわけです。間違っていたとしても、一応の理屈があるからこそコミュニケーションができる。
一方で理屈も何もない、でも主張だけがあってそれがさも一つの価値観であるかのように提示されるってことが結構な苛立ちの元になるんだな、ということが今回はっきりわかりましたね。もうね、全米ナンバーワンとか全米が泣いたとかとおんなじですよあれ。なんだよアメリカ人泣けばいいのかよみたいな。

僕はITネタを書くときは自分の属する業界ですから、悪口も書きますけど、少しでも良くなってほしいという気持ちを持って(できれば方法論も共に)書いていこうと思っているし、そうしてきたつもりです。社会で生きていくことの大変さも、会社員として生きていくことで得られることのある喜びなんかもあるよ、というのも大事だと思っている。なので、理屈もなしにそういったことを悪のニュアンスを持って語ることについてはどうしても反論したくなるし、理屈があってもそれがあまりに一方的な価値観だと反論してしまう(最近で言うと脱社畜ブログは内容はともかく言葉の選び方が挑発的すぎて看過し得ないことが多い)わけです。

多様性を認める、というのはルールの逸脱を容認するものではないし、認めろって言っている側が従来の価値観をことさらに否定するのは自家撞着としか言えないんだよね。少なからず社会によりかからないと(150万円が生る木を持っているわけでもあるまいし、そもそもそれを使うということが社会性そのものなわけで)生活もままならないはずなのにね。辛ければヤメればいい、なんとかなるという言葉は僕には言えない。

「適当」であっても発した言葉には責任が伴う。大抵の場合、僕たちはその責任をとるような自体を引き起こしはしないけれどもね。そういう意識は常に持っていたい。