批判といじめの境目

一人でやるなら批判、みんなでやるならいじめ。そう言わんばかりの言葉がしばしば見受けられます。
たしかにそこに問題はある。批判といじめの境目はどこなんだろうと思うこともあります。いわゆるいじめの大半は理不尽な理由によって起きていますが、じゃあ原因があればいじめてよいのか、と言われるとそれは違うって思いますよね。
じゃあ、誰かをよってたかって批判することはやっぱりいじめなのか。そうとしか言えないよね、という事例もないことではありませんね。
でもそうするとネットで批判なんて大抵の場合そうなるじゃない?だから、物事が「批判」の範囲で留まっている間はそれをいじめと言っても仕方ないんだと思う。嫌がらせ、とか、社会的に排除、とかそういうレベルに至ったらそれはいじめになるんだろうと思うけれど。昔誰かさんに食らった言及し続ける限り粘着します宣言なんてのはどっちになるんだろうね。

だから、例えば誰かがしたことに対して釈明を要求するのは正当な行為として、それを署名による数の暴力に転換して強要するのはどうか、という話は議論の余地があると思う(何のことを言っているかはお察し)。単に個人対個人だったら正当な批判に対して釈明をしない個人はまあその程度のものだって見なせばいいわけですからねえ。とはいえ、メディア気取って(つまり自らをほぼ公人と規定して)活動している人がその影響力の範囲で行った行為について、その影響力が発揮される場の住人として一致団結して釈明を求めることがNGだとは僕は思わないけどね。
そのへんはずっと言っているように、影響力の大きさによって(発言が制限されるものではないとしても)発言が引き起こした影響についての責任が相応に発生する、ということであって、その影響力に対応した大きさの批判が起きることをいじめと称するのはアンフェアなことではないかとは思うんですよね。望んで得た影響力でないのであれば、それを行使しないという選択肢ももちろんあるわけだし、自ら望んで影響力を得ているなら尚更です。