何かを解決するのに銀の弾丸など無い。逃げることもまた然り

往々にしてですが、何かで成功した人は、その要因が自分の置かれた環境に大きく依存している可能性(成功体験では人は救えない - novtan別館など参照)をわりと無視して一般化して語りたがる傾向があるように思えます。

子供の「学校から逃げる」という行為は、ある種の自己防衛本能なんだよね。言葉にもうまく出来ない、子供の本能的な行動を、大人は受け入れてあげるべきなんだと思う。そんな本能は大人になるにつれ失われていくから「逃げるな、戦え」と強制させてしまいがちだけど。

家入 一真 - 先日中学生への講演で「皆さんの中にいじめっ子もいじめられっ子もいると思います。学校や友人関係がこの世界... | Facebook

もうね、学校が嫌で嫌でたまらないという感じがあっていたたまれないくらいの文章なんだけどさ、こうやって一般論として敷衍することは個人の体験を根拠にしてしまうとほんとダメだと思う。

逃げることが結果として成功につながった人もいれば、そうでない人もいる。社会の構造を考えると、逃げるってのはいじめとかそういう問題に対する緊急避難でしかなくて、逃げないで済むなら逃げないほうが将来を踏まえたリスクは少ないだろうことは予見される。学校ってのはそういう存在ではある。
だから、いじめに対して「無理して立ち向かわなくてもいいんだよ」というのは正しいんだけど、その手段を逃げるに限定する必要はない。そこは一つの人生の選択ではあって、その選択肢を逃げるに限定することがまた生き方を型にはめる一つの考え方でもある。
逃げなくてもできる解決策を探す、ということも人生の勉強かもしれない(繰り返すけど、緊急避難的な逃げる行為は別で、大いに有りだよ)。

多様な価値観や生き方はあってよいんだけど、なぜか既存の価値観に嵌らないで物事を解決してきた人は、「にんげんだもの」くらいの勢いで多様性を正義として自分の生き方を肯定する割に、既存の価値観そのものが悪だという半ば多様性を否定するような言動をしてしまうということがあって、それを僕は苦々しく思うことがある。固陋であり因習であるような価値観を打破する、ということは必要だと思うんだけど、特段何も問題ないのに「頑張りすぎ」とか評価したりするのは自分の価値観こそ正義という思考の現れであって、自由を標榜する割に他者の自由を尊重しないのねーとか思ったり。もとより「俺が絶対正義」とか言っている人のほうがよっぽど好感を持てる。

「逃げる」は「正義」ではなく「一つの選択肢にすぎない」ことを意識できると、目の前が少し開けるんじゃないかなーとは思う。

人生において、逃げ続けていると少しずつ何かを失っていくか、負債が溜まっていく。逃げ続けることができなくなって、清算を迫られた時に「逃げ続けた自分の人生はこれで良かったんだろうか」という疑問を抱かないで清算できるといいね…