ホワイトカラー・エグゼンプションと裁量労働

思考のスタート地点。まとまっていません。
何度となく考えてもホワイトカラー・エグゼンプションの対象にいわゆる裁量労働制度で成果主義なサラリーマン、特にSIerな人々が入るとは思えない。
もちろん、全てが該当しないと言っているわけではないけれども、裁量労働というのは制度そのものがそもそも間違っていて、実態として裁量の余地があるとしたらそれは仕事の形態ではなく「契約と権限」によってもたらされるものだ。営業が裁量労働になるとしたら、それは定量的に量ることのできる成果が出る場合のみであり、例えば商品を直接売る営業については到底達成不能なノルマを後付で押し付けられることさえなければ、問題ないような気がする
残業が発生するかどうかは、当人には全く制御不能な場合がままある。システム開発において200人を擁するプロジェクトで障害が発生したとき、10人単位に分かれているチームのリーダーが皆「障害が発生したのはあのチームの問題であり、リカバリー作業も類似見直しもあのチームだけなら3日は最低でもかかりますし、全員で手分けしてやれば1日かからないで復旧するかも知れませんが、私のせいではありませんし、火消しが評価されるかわかりませんし、裁量の範囲から外れているので帰ります」という仕事が可能なのが極端な例だが裁量労働なんだと言うべきだ。
サービス残業が問題なのは、残業代を払わないことそのものよりはむしろ会社が労働を強いていることが実態として把握できないことだ。それを裁量労働という隠れ蓑で隠蔽することが目的になっていないかどうか。ホワイトカラー・エグゼンプションに年収要件があるのは、理不尽な待遇から逃げ出すための経済的な猶予を与えるために他ならない。
しかし、裁量労働は「見込み」残業を織り込んでいるし、それを越えると認められるだけの残業を行った場合、(最悪訴えれば)残業代を払ってもらえる可能性はある。ホワイトカラー・エグゼンプションとは根本的に異なるのはその点である。とはいえ、自分起因でない非常時に平常時と同じ待遇を求めるのであれば、そもそも会社が非常事態宣言をしてしまえばやらせたい放題になると言っているのと同じだ。本来、裁量で仕事が出来ると言うのは、やるべきことが明確に定義されていて、それが自分の手に余らないことがありらかであるからだ。また、業務命令での内容の変更は契約の見直しをすることに繋がる。これがあって初めて自分でコントロールができるというものだ。これがない裁量労働など単に形式の問題に過ぎない。となると結局のところ、裁量労働は管理職のものでしかない。
非管理職において、自分の仕事を真にコントロールできる職種は限られている。ホワイトカラーと、また一般的な分類の職種でひとまとめにする前に、その明確な定義づけを行い、対象業務と成立要件を運用ではなく法に明記すべきであるし、それができないのであれば、サラリーマン奴隷化法案と謗られるのもしかたがないことだ。