公私の境目が崩壊していないかな?

例えば、「思想・信条の自由」というときに、それが憲法で保障されているとか、そういった話になるのはあくまで個人の私的な思考・志向についてそれが認められているという話であって、社会に対してそれを行使することまで自由であることを保障されているわけではないと思うのです。
職業選択の自由と矛盾するかも知れないけれど、職務によってその私人としての思想に反することを命じられた際に拒否することはそれが職務であることが明らかであれば単なる我侭であり、社会人としての自分と私人としての自分の切り分けができてないと言ってよいんじゃないでしょうか。なにしろその勤め先を選んだのは自分であるし、職業について他人に強制されえないとしても、勤め先選択の自由を得ているわけではないわけで。
※12:30 以下追記というか続き
上記の例についてはそう単純に言い切れない部分もありますけれど、俯瞰的に眺めて今の社会で問題になっている現象のいくつかは、その個人としては大事にされるべきだけれどもそれを社会に対する要求として提示することが果たして正しいのかどうか疑問に思えることを遠慮なく持ち出す人が増えたことによって起こっているものなんじゃないかと思うのです。
自由であるのは自分が何を考え、その結果としてどういう選択をするのかであって、その選択自体とそれによって起こる結果は考えたことと切り離されます。もちろん、なぜ選んだかと言うのは場合によっては認めてもらえるかもしれませんが、それが常に認められるべきというのは自分の思想を他人は受け入れるべきと言っているのとあまり変わりがないんじゃないでしょうか。
思想を例に考えてみましたけれども、医療に対する要求とか、教育に対する要求とか、行政に対する要求とか、確かに個々の利益や感情に合致しないものが多々あると思いますが、社会全体から見たときに例えば最善を尽くしたのに命を救うことができなかったのが過失だとして訴えるような行為が認められてしまうということはあまり望ましくないでしょう。
法律とか条令が結局のところ、そのボーダーラインを定めているのでしょうけれども、もう少しモラルとか最終的に自分に跳ね返ってこないためにこれ以上は要求しないほうがよいラインとか、そういうものをうまく提示できないものなんでしょうかねえ。村主みたいなのがいないとダメか。