僕は弁護士にだけはなるまいと思っていた

中学生頃か。弁護士にでもなったら、と言う問いに、悪いことをした奴の弁護をすることは難しいと答えた。
僕は依頼人の利益という明文の元に量刑を減らすことを目的に活動する、と言うことの意味が未だに良くわかっていない。濡れ衣の為に戦うことは理解できる。犯した犯罪と言う事実があり、手を下したことが明らかであるとき、背景について過剰に評価を行うことは日本の司法の悪い面だと思っている。背景について理解を示すべきは社会の方であって、司法ではないように思う。これはどういうことかというと、もちろん情状酌量を否定するわけじゃないしちゃんと考慮すべきだとは思うけれど、刑罰は犯した犯罪に即して決められるべきであり、背景の評価は、その罪によって課せられた課役を果たした後、社会がどう迎え入れるかの問題だ、と言うこと。その点について、日本の社会は成熟していないと思う。排除するにしろ、許すにしろ。それはそのことについてずっと目を瞑ってきた弊害だ。
素人の評価は意外と正しい。一見憎しみに見えるそれは、実は恐怖だ。自分たちの価値観を脅かす、正体不明の思考は恐怖の対象だ。排除しなければならないと思うことは自然だ。人間の知性が恐怖を取り払うためのものであるならば、それはまだ十分ではない。死への恐怖は何度も克服され、そのたびに別の角度から蒸し返される。
さて、これがスタンスの表明になるかわからないが、踏まえつつ光市母子殺害事件について。正直な感想を言うと、僕は一体全体誰を信じれば良いのかわからない。誰もが皆自分の都合の良いところを切り出して相手を糾弾しているように思える。それでも議論をする意味があるとしたら、本来司法とはどうあるべきか、と言うことを少しでも多くの人が知ることが出来るかも知れない、と言うことと、社会が求めていることは何か、ということが多少なりともわかることだろう。僕は為政者ではないからそれをもって何かをすることはできないけれど、一連のやりとりで得た答えと、元々もっている自分の考えが違っていたときに、それを改めることはやぶさかではない。いずれにしても、最終的にできることは、司法の判断を待つことだけだ。
もっと個人的に掘り下げる。不自然だと思う。精神年齢が低すぎるということであるならば、言うことを聞けば減刑されるというロジックを理解することができるとは思えない。メモについてのやりとりの中で、どんな状況であろうとも「舐めないで欲しい」と言う発想が出てくるとも思えない。だから、ドラえもん・生き返り的な発想が真実であるとも思えない。このことは、弁護人を責める話ではないかもしれないけれど、このシナリオで押し通すのが本当に良いかと言う点については疑問だ。どうもその辺のちぐはぐさ加減がこの事件全体を蔽っていて、それゆえに、単純な思考として、意思ではなく、(死に至らしめたという)結果がクローズアップされているのだと思う。弁護団が何を勝ち取りたいかもよくわからない。
結局のところ、何もかもわからない。わからないときに適用されるのは、オッカムの剃刀だ。この事件におけるシンプルな説明。弁護団が覆さなければならないものは大きい。決して過去の経緯ではないと思う。