法律で対処出来ないこととマナー

よく外国(欧米)とのギャップで語られるのは「日本人は汁を音を立ててすする」ですよね。これで不快感、ともすれば生理的嫌悪を伴った、を覚えるから文句を言われたりしますが、某お茶漬けのCMで美味そうって思ってしまう我々(もちろん、不快に思う人もいる)。マナーなんて言ってしまえばその文化圏でしか通用しない話を押しつけているにすぎない部分が大きいのです。
生理的嫌悪を法律で排除することは難しい。基準が属人的すぎるから。たばこが公共の場から法律によって排除されつつあるのは健康被害の問題で単に煙い臭いだけであれば排除されえない。でも煙い臭い危ないをマナーの問題として捉えて迷惑かけないように、と考える人は増えてるよね。これだって一部の人には同調圧力かもしれない。迷惑がる人いなかったら吸ってもいいんじゃねと非喫煙者の僕でも思う。
幅寄せしてはいけませんってのは法律に明記されているけど実際に問題になるにはある限度を超えたときだよね。その曖昧さ加減を運用するのもマナーの範疇だろう。
法律は明文化されてるけど、マナーだって明文化されてるものがある。破ったら白い目で見られたり揉め事になったり。明文化されてないマナーは暗黙の文化的常識で。これらは社会の変容とともに変化していく。
いろんな種類のマナーをごちゃごちゃにするとわけわからんけど、そのありようが問われ続けないマナーなんて法律と大して変わらない。破る人が増えて問題になったら法律になるかもよ。変化しうるマナーは破る人を嘲笑したり糾弾したりするためのものではなく、相互の思いやりを内包しているからこそ変わりうるのだと思うよ。
とはいえ、あんまり変わり続けてもマナーとして確立してないってことだからね。「こうでも良いんじゃないか」という声が次第に増えてきた結果として変わるくらいがちょうどいい。その過程で守らないという選択をするのも一つの意思表示。それが過剰であると見なされたら排除されるのは同調圧力というより円滑な社会の健全な機能だよね。