右、左、真ん中

政治の話は自分の見識のなさを思い知る事が多くてあまりしたい話ではないのだけどついついしてしまうのはやはりなにか鬱屈したものがあるのだろうなあ、と言い訳しつつ。
政治の話をしたくない理由の一つは、どうしてもセンチメンタルな気分を伴ってしまうから。人間とは、他者とは、社会とは何か、ということを真面目に考えれば考えるほど、政治と言うものに混乱してしまうのです。そりゃあ普段は「バカは死ね」くらいのことは考えます。しかし、自分がそのバカであることを否定し得ないくらいの人間です。本気で社会について考えなければならない時に、強固な考えを持ち得ないのは負い目ですらあります。現実主義というと聞こえは良いけれども中道派なんてのは所詮イデオロギーを持ち得ない、中途半端で不真面目な存在なのであると。
もちろん、大事なものを抱えているはずなのに、手段が目的を凌駕してしまっている勢力のことを極Xと呼び、非難することは僕だって正当性を持ち得る。でも、この、僕たちが生きる地平のことを思い、よりよくしようとする思いそのものを政治的な見解の相違で否定することはなかなか難しい。あ、極Xな人たちはその思いを共有できないから問題外としてね。
一昔も二昔も前はサヨクといえばソ連中国共産党とどうのこうのというのが典型だった一方で、いわゆるリベラルの役割も担っていて、僕も高等教育を受けた結果として大枠リベラルである自覚はある。しかし、日本の風土、風習、果ては国体までをそれなりに愛する身としては心情右翼と言われてもおかしくはない。客観的にみて矛盾しているだろうものが同居しているのは多分に理屈ではなく感情の問題なんだと思うのです。だから、政治の話は僕のセンチメンタルを刺激する。
この国のかたちがどのようにできたのかは、僕たちの世代は歴史に学び、あるいはバブル崩壊後の日本を体験したことで知っているはずだけど、結果としてはもっともノンポリな世代なんだと思っています。僕らの目に焼き付いた、子供時代の在りし日の日本は政治的闘争の意味を考えるにはあまりに豊かで活気に富んでいすぎたのです。
今更ながら、右翼といえば街宣右翼、左翼といえば沖縄と成田というステレオタイプを刷り込まれている世代であると認識をあらたにします。そのことは、右翼と左翼と言う言葉を矮小化(あるいは過大評価)するのに一役買っていて、だから、みながウヨサヨいう対象について、なかなかその立ち位置で規定することがしづらい。極端にいうと、僕にとって右翼左翼とは個々の人間に対する愛をイデオロギーが凌駕している存在のことを指すのです。
国のありように対する見解なんてそう簡単に左右に塗り分けられるものではないと思うし、それがゆえになかなか賛成できる総論には巡り会えない。だから、結局は政治家の、あるいは政党のどういう部分に共感し信頼をおくかということしか判断するものがないのです。


改憲はなにも右翼のお家芸と言うわけではなく、護憲が左翼の譲れない線であるわけでもありません。自民党が右傾化している、それは改憲派だからだ、というロジックは僕の中にはない。あえてステレオタイプな右翼観からいうと、片山さつきの言こそが全てであり
、あれを党として否定しないのであれば僕は自民党を極右とみなしていいとすら思う。そこを譲れない僕はやはり色をつけると左派と言う事になるのだろうかな。
国防軍の件にしても。僕は自衛隊は(少なくとも観念においては)日本の誇るべき存在の一つだと思っているけど、それを国防軍とする事には抵抗があるのですね。日本が持つこの大きな建前は、建前として機能させ続けなければならない。では、その思想を持って右か左かと言われるのかなあ、それこそ、右からは左、左からは右って言われるように思うけれど、僕はこのくらいの話で他人を右左に塗り分けるのはやっぱり難しいと思ってしまうんだよね。
確固たる思想の持ち主にとってら僕はやはり腐れ中道派にすぎないと思うのだけど、そうである自分を僕自身はそれほど嫌いではないのです。