自由と責任

この辺の言葉の使い方の問題かな。思想的には大きく乖離していないと思うんだけど、難しいね。

pbh ↓発言は自由だよ!件の准教授にはあの発言をする自由は有るんだよ!多分。その自由の対価として責任が有るだけで。
NOV1975 web, 匿名 手厳しいな/攻撃を肯定しているわけでもないというか、むしろそちらについては別の大きな問題として存在するけど、別の話だと思ってる。/攻撃されない(=迷惑をかけない)なら発言は自由かというと違うとも思うしね

はてなブックマーク - 「所属を明かしてるとその所属も攻撃されちゃうよ」って警告と「あいつ所属開かしてるから、そっちを攻撃しようぜ」って発想は全然別! - 幸せの鐘が鳴(r

もちろん、自由はあるんだけど、それは可能性としての自由だし、責任に配慮しない自由だよね。誹謗中傷だって自由といえば自由であって。僕は自由の対価として責任があるときに、その責任をどう取るべきかというところに自由を制限する(というと大げさだけど、配慮すべき)何かがあると思っていて、それは攻撃者がいるかいないかには左右されないと思うんだよね。もちろん、ウェブという世界において、攻撃者の存在は大きいけれども、それはウェブがパブリックな存在であるということの証明でもあると思う。その点ではテレビと一緒というか、テレビより性質が悪い。コントロール範囲が狭いという意味では。
うーん、なんか上手く説明できないや。

バビロニア・ウェーブ / 堀晃

僕はあんまり日本のSFは読んでないのだけど、なんでかというと、スケールというか、ケレンというか、トンデモというか、なんとなくそういうところが足りないような気がするのですね。もっとも、食わず嫌いな部分もあるかもしれないけど。
でも、ふと手にしたこれはなかなかスケールのでかいお話でよかった。話のスケールはでかいけど、活動範囲は小さいってのも省エネな感じでまあ、日本っぽいのかもしれない。

バビロニア・ウェーブ

バビロニア・ウェーブ

太陽から少し(といっても地球からはだいぶ遠い)離れたところにある謎のエネルギー帯。人呼んでバビロニア・ウェーブ。目には見えないけど、存在し、そこからエネルギーを反射板を使って取り出すことが可能になったところで、人類はほぼ無尽蔵なエネルギー源を手に入れたことになった。けれど、反対側に反射されたエネルギーはどうなったんだろう。
基地間連絡艇のパイロットである主人公は、ウェーブを取り出して地球へと送る照射基地のトラブルに巻き込まれ、バビロニア・ウェーブの存在の予言者であり、発見者であるランドール教授を拾い上げ別の基地に向かうことになるのですが、そこでの様々な思惑と、不思議な出来事に巻き込まれ、次第に事件に深入りしていくことに…
極めて淡々と進んでいくドラマですが、とにかくスケールはでかい。何しろ直径1200万キロ、全長5380光年のエネルギー帯が相手です。バビロニア・ウェーブが何故そこにあるのか。なんともハードなSFですが、こういうのは想像力を駆使し、世界観を楽しむのが一番。しんみりとした感じのお話がなんとも味わい深い。

騙し絵の檻 / ジル・マゴーン

法月綸太郎の評論集?「複雑な殺人芸術」(これも大概な書名だよなw)を読んでその中のいくつかを入手。一番薄い本書から読んだんだけど…うーん、これはすごいな。本格パズラーとしては傑作でしょう。

騙し絵の檻 (創元推理文庫)

騙し絵の檻 (創元推理文庫)

原題の"THE STALKING HORSE"は、おとりとか口実とかそういった意味らしいけど、この訳題もなかなか。一体全体檻に入っているのか入ってないのかわからない何かが。
16年間無実の罪で服役してきた主人公は真犯人を見つけて復讐することだけが生きる望みだったため、出所後、幼馴染の同僚と、その夫が使用していた私立探偵の殺人事件について、自分を嵌めた人間がいるはずの会社に舞い戻ります。何しろ創業者の孫で大株主という(殺人罪でぶち込まれていさえしなければ)恵まれた立場。16年前、自分を信じてくれた者、くれなかった者たちからあの手この手で証言を集め、真犯人を突き止めようとします。でも、みんな動機がありそうでなさそうで。
なぜか同情的な元新聞記者ジャンが付きまとい、手助けされることで、ついに真相を掴んだ主人公。会社の役員会に乗り込み、真相を明かすのですが、この、一人一人を疑い、そして動機を消去していくくだりと、そこで否定された証拠が視点を変えることで一転、真犯人を示すことになるあたりが訳題の由来でしょうけど、正に圧巻。
しかし、そのねえ、ジャンという女性記者の押しかけ味方っぷりがなんなんですよね。まあ、謎解きが主体なのでこれでいいんだけど、もうちょっと何とかならなかったのかな。

のりりんの本はコレ。

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

法月綸太郎ミステリー塾 海外編 複雑な殺人芸術

ケータイ世代の視野の狭さ

世代論としては愚劣だと思わなくもないのは携帯世代というよりは携帯「しか」使わない世代的なものだと思っているからなんだけど、それはさておき。

今、ケータイを取り巻く世界では何が起きているのだろうか。知りたいと思っても、まとめサイトがない。PCとケータイは世界が分断されており、情報が入ってこない状態である。

http://journal.mycom.co.jp/series/mobilecom/001/index.html

それ、携帯使えよw「PC世代よ、ケータイコミュニケーションを知ろう」どころじゃないだろw
あえて世代論として、すごく雑感的に記すと、僕が携帯で我慢が出来ないのは、そのI/Fの劣悪さとスピード、そして何より単位時間(というより面積か)当たりの情報量なのであるが、携帯で満足している人にとってそこは重要ではないようだ。つか、僕らにとって、携帯は手段である。彼らにとって携帯は目的である。それだけのことだろう。
ポータブルなサイズとして、携帯は十分な大きさであり、しかし、僕らの求めるものには足りない。小さいということはそれが既に制約である。かといってPCを持ち歩くことはハンデである。この状態は多分メガネ上大画面プロジェクタが普及するとか脳直結デバイスとかにならない限り解消しないだろうし、携帯の終わりはそこだろう。
携帯であることに意味があるのではなく、単に一番リーズナブルで、一番小さくて、便利なデバイスであるに過ぎない。携帯上でのコミュニケーションなどPC上でのコミュニケーションの縮小再生産であるに過ぎない。
ただ、この「縮小」であるということには意味があるかもしれない。つまり、敷居が低いのだ。情報量の少なさも同様だ。みながPCでヘビーに情報収集し始めたら当然多大な格差がもたらされるだろう。きっと携帯の奴らを鼻で笑っている同世代はたくさんいるのだろうけれども、目的と手段が逆転している世界ではその価値観は役に立たないのだ。
つまり、あえて視野の狭さを選択し、コミュニケーションという目的に特化しているのが携帯世代であり、携帯にとっての読みやすさは情報量の少なさである。小説からマンガに娯楽が移行したとき、マンガが秘める情報量は小説のそれとは質が違うものの、単純に「字が減った」では表わせない多数の別の情報を含んでいた。果たして、携帯上にそれはあるか。携帯上でのコミュニケーションにおけるメタメッセージは未だ発展途上であるとも感じる。我々の世代が携帯をバカにしている間にそれは理解不能なまでに進化するかもしれない。
まあ、情報量減ったなあとしか感じられない間はPC世代と携帯世代の乖離は続くんだろう。少なくともWebサイトという点で考えると、画面の情報量よりもI/Fのダメさ加減の方がよっぽどマイナスなんだけど、それは行きつ戻りつを繰り返すスタイルの限界なのだろう。携帯文化とは、決して後ろに戻らず進み続けることの象徴としてあるのかもしれない。

面接で「当社は正直、第何志望ですか?」と聞かれたら

Yahoo!のトップページには「GWだけどガンバレ、就職活動」なんていう学生には中々酷な特集がされていますね。いきなり一番上にYahoo!知恵袋の質問が。「面接で「ここは第一志望?」と聞かれたら・・・」閲覧者が多いわりに回答も少ないようなので、就職活動している人の一助にと思い、相変わらず臨時的面接官の目からではありますが、回答の仕方を。
ちなみに、ベストアンサーはこれ。

”第一志望群”と言うと良いです☆
日本語の使い方が間違ってるとか言う頭カッチカチの友人はシカトです☆
オブラートに包める日本語力の方が、規則どおりの日本語よりも大切です。

面接で「ここは第一志望?」と聞かれたら・・・ - 今就活で面接を行ってい... - Yahoo!知恵袋

この人、プロフィールによるとお仕事は「夜のお仕事」だそうなんですが、そんなんの回答でいいの?w

関連エントリ:
面接官から見た、面接で好印象を得るポイント - novtan別館
人事でもないのでどこまで役に立つかはわからないけど面接の話の続き - novtan別館
面接のコツ-履歴書編 - novtan別館
採用における「顔」の重要性について - novtan別館

第一志望群と答えると?

まあ、僕が面接官の場合、感じることは二つ。「バカにしてる」「質問の意図が読み取れない」。正直なところ、愚問な訳です、この問いは。第一、ここにいる貴方がうちを第一希望として来ているなんて確率は限りなく低い。低すぎ。涙が出るほど低い。
タダでさえ第一希望であるとは思えない(これは、別に会社を卑下しているわけではなくて、本当に第一志望なんてものがあるのであれば、それはもう恋愛に近いものであるから、正しい答えであることなんて確率論でしか語れないくらい不確かなことだということです)のに、群ですと?嘘でもいいから一番といってよ!貴方にとって私はなんなの!仕事と私、どっちが大事なの!はぁはぁ。まあ、そういうわけ。いや、半分冗談ですよ…。あっと、仕事の話でした。失敬失敬。

質問の意図

他の会社の事は知りません。僕がもしこの質問をするとしたら、相手の就職活動状況を掴むことと、少なくとも業界を向いているかどうかを読み取りたいから、行うことになります。ある程度切羽詰ってるのに「他の会社と比べて」なんて言う人いませんからw
あとは、覚悟かな。第一希望かどうかと共に正直な人には答えづらい「内定をもらえたら、就職活動終わりにしますか?」なんてのもそうですけど、本当のことを言うなんて思っちゃいません。でも、どういうつもりでこの面接に臨んでいるか、ということは大体わかります。嘘とかそういう次元じゃないです。面接で話したエピソードの嘘は、ちゃんと自分も騙すつもりで吐けばこちらとしてもわからないし、それはそれで幸せですが、ここまで話してきた貴方の印象というのは既にある程度明確な答えと共に出来上がっているのです。そこで、答えのない質問をしたときの回答というのがろくでもない嘘であるかどうかは、簡単に判断できます。

じゃあ、どう回答すればよいの?

はっきり言ってしまうと、正しい答えはありません。一つだけいえるのは、それまでの面接内容に対して、矛盾するような答えであってはならないということです。例えば、「なんでうちの試験を受けてみようと思ったの?」という内容を以前に話していた場合、その答えと第一志望かどうかの答えは以下な感じ。

  • 初めからITに興味があって〜 ⇒ 第一志望です!是非入りたいです!
  • 最初はあまり興味がなかったんですが ⇒ 社内のXXさんの話を聞いて今は第一志望(とか、上位とか)です。
  • 色々な業界を回っていて、絞りきれていません ⇒ この業界の中ではもちろんTOPです!

こういうのは矛盾しません。最後の奴なんて最後に自信満々に「第一志望です!」なんて言われたら引きます。それまでが良くても全部嘘だったんだなきっと、という評価に成り下がりますよ。
第一志望群、というのも正直ズルをしている答えです。質問にちゃんと向き合っていないように思えます。群であるからには、その構成メンバーを明らかにしないといけませんよね。僕が面接官なら、「じゃあ、第一志望群の他の会社は?」と絶対に聞きます。そして、それがそれまで聞いた話と食い違っていた瞬間、嘘つき認定です。さらに言うと、同業他社だ出てきたらかなり警戒します。当然、以前書いた調査票みたいなものに、回っている会社名を書かせています。チェックチェック。

そう、この質問は、貴方の論理性と柔軟性を試す最後のチェックなのです。場慣れしてしまった人には通用しませんが、どうも入る気がなさそうだ、という奴にはそこそこ効果的でもありますし、会社や面接の雰囲気次第ですが、それまで話したこととの整合性が一番重要なのですから、どんなことを話したか、そこで演じた自分はどんなのだったか、というのを思い起こして、はっきりと(コレ重要!)答えるのが大事です。
たとえその答えが、「第一志望ではありません」であっても、単純にガッカリとはしません。もちろん、嘘でもきちんと「第一志望です!」と言ってもらったほうがよいのです。
でも、企業にとって、採用とは、コストを掛けて、来年の予算に合わせた人を採るという作業であり、あまり計画と逸脱は出来ないものです。つまり、大量に辞退が出ることを見越して多く採った結果として、予算をオーバーしてしまうというのは避けたい。なので、入る気のない奴が面接を受ければ受けるほど、この問いの重要性は増して行きます。就職活動をする人は、できれば「入ることになったらこの会社が第一志望だったって言える」ような会社を選んで就職活動して欲しいものです。それは、単純にステータスとか待遇とかじゃなくてね。そういう眼力を、いろんな会社説明会にいって身につけましょう。面接まで進んだら、本当にその会社を志望していると言えるのか、について、自分と向き合って良く考えてみてください。
まずは、相手のことを好きになってみる、そうすると、嘘ではない言葉がきっと出てくると思いますよ。

マスコミは、死んだ

いや、もう何年も前から死んでいるのだ。
インターネットがカウンターメディアと言われて久しい。その原因の一つがマスコミへの不信感によるものだ。一方で、インターネットへのマイナスイメージが根強いのは、情報について善悪の区別を恣意的には行わないというインターネットのあり方が一つの要因ではあるが、もちろん、意図的にマイナスなニュースのみ報道されがちだからだ。誰にか。マスコミにだ。
人々は既にインターネットを便利に使っている。マスコミがインターネットの暗部を報道すると「ヤダねえ」といいながらヤフーニュースを見る。別におかしなことでもない。彼らが見ているのはインターネットであり、暗部もまたインターネットなのだ。そこに矛盾は生じない。単純な二分法の世界では、悪いマスコミといいマスコミがいるのは当然であり、自分達がいい方に組しているのは当然なのだ。インターネットも同様であり、そこに善悪の問題があるとすれば、自分がいるかいないか、それだけのことだ。
にもかかわらず、マスコミによって、例えば自殺幇助がインターネットのせいにされる。マスコミが期待しているのはそれにより正気を取り戻した大衆がテレビに、新聞に帰ってくることであろう。あるいは、インターネットを規制することだろう。しかし、大衆が怒りを覚えるインターネットというのは、マスコミが見ているそれとは違うものである。無論、何かの規制が始まり、便利なものを取り上げられたとしたら、その怒りの矛先が向くのが都合よくそれを規制した政府に行くと思ったら大間違いである。
マスコミの自殺は幇助するまでもないが、心中させられたらかなわないので、記しておくことにする。

「テレビで知った」は何故問題にならないのか

硫化水素の自殺方法だってテレビで報道されて始めて作り方をインターネットで調べた、って人が大多数だと思うわけだ。が、

高知県香南市市営住宅で23日に自殺した中学3年の女子生徒(14)は、硫化水素による自殺方法を「テレビで見て知った」と書き残していた。県警香南署によると、生徒の自宅にはパソコンなどの機器はなく、ニュースなどから知識を得たとみられるという。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080426-00000020-maiall-soci

という例もある。
では何故インターネットだけ過剰に規制されようとするのか。
単純に言うと、報道というのは一過性のものだ。すぐ消え去るものだ。自粛しようと申し合わせた瞬間、その先にはいかない。既に報道されたのを見ない限り、あるいは「過去の」新聞や雑誌を漁らない限り、消え去るものなのだ。しかし、インターネットは違う。永遠に「現在の」情報として掲載することができる。
新聞の訂正記事を見るといい。どんなに重大な訂正であっても、その事件そのものを訂正した観点から報道しなおすことはありえない。ただ、間違っていた事実について言及するだけだ。そのことによって話の要旨が全く変わってしまうとしても、「訂正」記事で終わってしまうだろう。つまり、報道というものの大部分は、それを行っている者たちの過剰なプライドとは裏腹に、一過性の、揮発性のある、その場でしか意味のないものでしかないのだ。大衆にとっては。
もちろん、報道における記録性というのはそのことを割り引いても大きな価値があり、プライドを持つに値する仕事ではある。しかし、そのことは報道そのものの持つ世の中に与える影響力とは別個のところにあることが多い。結局のところ、報道が「テレビのせいで」などという言説に与さないのは、その矛盾についても熟知していて、影響力の一過性について認識しているがゆえに、その効果が限定的であり、制御可能であるという認識を持っているからだ。もちろん、常に現在であるインターネットに情報がある、ということを報道することにより、結果として、報道単体ではなしえない「継続的な情報の提示」をしているということが、このような危険な情報にとっての最大の過ちであることの自覚がないから「インターネットのせい」などと報道できる。あるいは、相対的に「過去の」メディアであり続けてしまうことに怖れを感じ、規制させようとしているのかもしれないが。
新聞社のニュースサイトはパーマリンクがなかったり、あっても一定期間で消える(本来的にはパーマリンクとは言えない)ことが多い。過去記事DBを有料提供して、という意図は合ったとしても、彼らは「報道とは何か」というのを熟知しているからこそ、そういった所業に及ぶのかも知れない。