放った言葉は意思を持たない

放たれた言葉は自らは意思を持たず、ただ力のみが存在する。力の責任の所在は自覚はどうあれ放った本人にある。人の目に触れる前になかったことに出来なければ、もはや過去を取り戻すことは出来ない。
言葉が持つ力は本来の意図とは必ずしも一致せず、また万人に対して一様の効果を持つものでもない。
だからさ、自分の立場や態度、まあスタンスだな、を表明したとしても言葉そのものに対する批判は受けるのですよ。理由がわからないというレベルではない。
そのことを甘んじて受け入れる*1ことができないと言ってしまうのは寝言や独り言の類であって、ふーん、そうなの程度しか効力が無い。
別にそのこと自体はどうという話ではないけれど、「普段のスタンスを見てくれればそういう意味じゃないことはわかるじゃん。何で批判されるんだろうか」って問うのは意味が無い。そう思うんだったら完全スルーするか全力で否定すればいい。そう思われることをどうとも思わないなら理解できないことの表明なんてしなけりゃいい。自分が他人を理解できないのと同程度には他人は自分を理解できないんだから、そんな当たり前のことよりも大切なのは言葉が与えた影響がなんであったかであり、それに無関心かそうでないかだけだ。
と、その程度は言葉を放つことに自覚的でありたいのですよ。ここにいる僕と言う仮想人格が生み出した言葉であり、本当の僕の想いと必ずしも一致していないかも知れないけれど、言葉を放ったのは紛れもなく僕であり、その僕を客観的に見ている本当の僕が何を思っているからといって放ったことに対する責任が減じるとは一切思わない。だから、受け取った側がその言葉で感じたことは僕が原因の一端であり、ただそれは、そのことに対処するかどうかとは全く関係が無いだけだ。対処するかしないかは、その取り巻く文脈で個別に判断すればよいだろう。

*1:批判を受け入れろと言っているわけではなく、批判をされることそのものは受け入れざるを得ないと言っているだけ